こだわりから解き放たれて
 第二章 煩悩の日々
三、楽しかった入院生活

 耳元で呼ぶ大声に、一瞬、目覚めた記憶があります。しかしすぐにまた深い麻酔の眠りの中に入ってゆきました。次に目を覚ましたのは、猛烈な寒さでした。全身がガタガタと震え、歯がカチカチとかみ合わされず、まるで氷の中にいるようでした。「寒い!寒い!」と言っていても声にならなかったようです。いつのまに掛けてくれたのか電気毛布のおかげで、また朦朧として眠りました。どのくらい眠ったのか、熱くて目を覚ますと今度は高熱が出て、氷枕と氷嚢で冷やされていました。手術前に少々風邪気味だったせいか、喉が痛く、痰がしきりに出ました。うとうとするとまた痰が喉に絡み、片手でふき取っては、ベッドに備え付けられた屑篭に捨て、またうとうととして長い夜を過ごしました。再び大きな声で呼ばれて気が付くと個室のベッドに寝かされていました。

 手術の翌日、癌摘出の出刀をしてくれた金杉医師が訪ねてきました。点滴立てとドレーンを両側に、かかしのように座る私を見てびっくりしていました。微かに頭を下げ、力のない声で手術のお礼を言うと、「これから長い付き合いが始まるんだ。一緒にがんばろう。」と優しく肩をたたいて私を励まし、外科医とは見えない温厚さを漂わせて病室を出て行きました。

今、病衣をまとい、点滴の管につながれてベッドに横たわっているのは、母ではなく、紛れもない私自身なのだというこの信じがたい出来事に現実の悪夢を見たのでした。

 術後二日目、とてもいい気分だったのでフォスターの”いとしきアンニー”を口ずさんでみました。一拍〜二拍目でもう息継ぎをしながら。それでも最後まで歌いきりました。ベッドから見える窓のキャンバスには、真っ青な空に白い雲がゆったりと流れてゆくのを映し出しています。

たった一人の部屋に術後の身体を横たえ、自分と向かいあう時間は充分にあります。生きている実感、健康への感謝の気持ちがどっと溢れてきて、涙がとめどもなく流れます。母が亡くなっても涙を流さなかった私が、まるで張りつめていたものが切れたかのように、次から次へと溢れ出ました。自分が無性に愛しく、また悲しく、可愛そうでもありました。

 うとうとしていると、どこからか美しいメロディが聞こえてきます。耳を澄ましてよく聞いてみると、曲はエーデルワイス。誰が弾いているのかとよく見ると、なんと主人が箏を弾き、私の師事する箏の師匠が草笛を吹いています。箏の演奏はトレモロや和音を巧みに使った超絶技巧です。主人がいつの間に箏を習い、いつのまにあんなに上手になったのか不思議でなりません。美しい音楽はたなびく雲に乗って遥か遠い山の彼方にまで流れ響いてゆきます。

検温のために夢から覚まされても、心の中は美しい気持ちが満ちていました。

 手術の痛みとか脇や腕のひきつりなどは、苦痛に感じるどころか、その強いひきつるような圧迫感が、硬くガッチリとスクラムを組んだ感覚でした。意識と無意識の間では、いつも私の右どなりに誰かがいて、私を守ってくれているようでした。ある時は母が、ある時は父が、夫が、愛する人たちが次々と私の腕を強く支えて、目覚めへと導いてくれました。毎朝が幸せな目覚めでした。

 術後一週間たった頃、「さあ、これからはしっかりと手の運動をしましょう。」と医師は今までとは打って変わった厳しい様子で、リハビリを促します。壁に向かい両足をそろえて立ち、まず、正常な手をまっすぐ上にあげ、それに合わせて反対の手を同じ高さになるよう挙げてゆきます。とても無理。傷口が開いてしまうのではないかと思うほどの痛さとむくみとで、ついかばいたくなってしまいます。医師の手助けのもとに一大決心し、ヨガの心得で全身の力を抜いて息をハーッ!と吐き、思い切って手をあげてみました。すると挙がりました。

その差は三センチだと医師は言います。

「一週間の間にあがるようにしておかないと固まってしまいますよ。」といつになく厳しい態度で、笑顔もみせずに去ってゆきました。

 その夜、食事中に別の二人の医師が突然現れ、一瞬いやな予感がしましたが来訪の目的を察知し、私はすぐにベッドから降りて、昼に金杉医師に習ったリハビリの実習の成果をやって見せましたが、二人の医師はもう一つ別の方法があると言って

ベッドに横になるよう指示します。

仕方なく横になると、右手の脇を開いて肘をつけたまま後ろに倒し、そこに左手を頭の上から持ってきて繋げようとするのです。一回目は二人の医師によって強引に倒され、私は咄嗟の知恵が働いてハーッ、ハーッ、と息を吐いては血液の流れを良くし、力を抜いて筋肉を和らげようと、自己防衛をしました。しかしその痛いこと。もう一回、今度はひとりでやれと言われ、私は勇気が出ません。決心しかねているところを再び強引に倒され、その痛さに思わず涙が出てしまいました。

「みんなこれに耐えてがんばっているんだよ。」と二人の医師は言い残して出て行きました。私は本当に意気地がないのだろうか。しばらくはショックで食事も取らずに臥せてしまいました。

 翌日も、その翌日も手を挙げる訓練が続きます。一度挙がって脇の筋肉が開いても、すぐにまた戻ってしまう感覚です。医師は毎日成果の点検にやって来ます。そしては根性のない私を見て、「隣の部屋のSさんはもう挙がったよ。明朝また見に来ます。」と言って出て行きます。何としても頑張らねばと思うのですが、気ばかり焦って一向に進歩の兆しは見えません。

翌朝、約束どおり医師がやってきました。そして手を上に挙げさせられました。しかし、朝の硬い身体では、いくら息を吐いても動きは鈍く、手を挙げると両膝までも上がってしまい、とてもできる仕業ではありません。一度出来たのだから大丈夫と励まされながらも二人の医師にまたも強引に押し倒されてしまいました。その強引さ痛みに涙が溢れ、こんなにまでしなくともと次第に医師が憎らしくなってきました。ふてくされてベッドの上でグロッキーになっていると、朝食の膳を下げに来た看護婦がびっくりして、「どうしたの、比留川さん。」と、たちまち私のメソメソが伝わってしまいました。

 それからどういう訳かその日一日メソメソが止まりません。点滴の間中も涙し、また昼食を運んできた看護婦がいつになく親切で、ご飯を盛ってくれたり、味噌汁の椀の蓋を開けてくれたりしてくれるのに対して、情に弱い私はさらに吠えるように泣き、広げてくれたおしぼりで顔を覆ってしまう始末でした。

「しっかりしなさい!これからが大変なんですよ。心をしっかり持たなきゃだめですよ。」と叱打、更に「テレビを付けなさいテレビを。ニュースやってますよ。」と言い残して出て行きました。

 また、昼過ぎにやってきた主治医の顔を見るなり、「リハビリは自分でやりますからもういいです。私には出来ません。」とまた泣きながら取り乱してしまいました。医師も初めはびっくりした様子でしたが、ひとしきりしゃべりまくって落ち着いた私に、静かにリハビリの必要性を話して聞かせるのでした。

主治医の話されることはいちいち尤もなことで、反論の余地などあるはずはなく、ただ小さな声で「解っています。」と答える私。

そこへ間髪なく「さ、やって見せてください」と。あくまでもやらせようとする医師。しぶしぶながらも壁に向かい手を挙げると、大して変化もないのに、「前より大分良い」と慰めの言葉の残して出て行きました。

 午後、日記を書いているところへまた二人の医師が現れました。

「大分落ち着いたね。」と取り乱した私のことはすでに承知の様子。

「すみません。泣いたり怒ったり、我が儘言ったり、ご迷惑をおかけしました。」雑談のすえの帰り際に、またもリハビリの成果を見せてくれと言います。そして、

「今日は合格!」と大きな声で言って出て行きました。

 術後二週間が経ち抜糸する日となりました。

「抜糸って痛いですか?」

「大丈夫です。」

「私は臆病だから。」

「みんなそうですよ。みんな比留川さんのように、抜糸って痛いですかって聞きますよ。だけど抜糸するのに全身麻酔をかけてやった人はいませんよ。」

抜糸に全身麻酔、いくら臆病な私でもこのようなことは考えてみたこともなく、医師のユーモアな言葉につい可笑しくなって、クスクス笑ってしまいました。しかし一旦笑い出すとなかなか止まらず、胸の辺りが小刻みに振動しています。

「あ、あぶないよ。じっとしてないと糸が切れないよ。」

「ちょ、ちょっとまって」と笑うのを止めようとするが、なかなか止まりません。病室には主治医と二人の担当医の他に、手術直後ずっと看病に当たってくれた看護師、つまり私の好きなスタッフたちが今、私のために集まり、抜糸の処置を施そうとしています。この幸せな雰囲気の中で思わず顔がほころんだのでしょう。唇を強く締めて息を止め、手で口をふさいでやっと笑いは止まりました。

抜糸を半分終えたところで

「あとは明日、経過は順調」と医師たちは満足そうに頷いて出て行きました。皆の温かい心が病室に漂い、しばらくはその雰囲気のなかに酔っている私でした。

 翌日、残りの抜糸もすべて完了し、あとは検査とリハビリのみとなり、その日から手の運動は今までの上下に横の運動も加わり、日常の動作すべて行ってよろしいということになりました。

 核医学科で骨の撮影が終わって病室に戻ると、カウンターの上には、三時のおやつに大きなプリンが置いてあり、ひとり黙々といただきました。

 まもなく入浴の許可も出、病室の入り口の横に設置されている浴室で、湯をたっぷり入れ、十七日ぶりに入浴しました。そして初めて、乳癌の手術の傷跡を見るのでした。

 やはり愕然としました。傷は胸骨の位置から乳首を通って脇の下へと流れています。母は縦の線だったなと思い比べてしまいます。医師や看護婦はきれいな傷だと言いますが、縫合の間から血が滲み痛々しく、臆病な私は触れることが出来ません。肩からシャワーをかけると、水滴が傷の上を玉になって転がっていきます。タオルの端で水玉をしみ込ませるように吹き取るのがやっとのことでした。

職員の病棟を行き交う足音も少なくなり、院内に静けさが戻る頃、個室の戸をノックする音が聞こえます。しばらくしてカーテンを寄せながら弟が顔を覗かせました。はるばる練馬区の土支田町から、横浜市の瀬谷区に姉を見舞いにやってきたのです。

闘病する母の看病と死に至る体験の中で、弟なりに乗り越えてきた今、また姉のガンを受け止めなければならないその心境を思うと、不憫でしかたがありません。ベッドの上と側に座る姉弟二人、思えば初めてしみじみ語る夜のひとときです。母が詠んだ歌「娘と息子 個室に吾さまざまを 語りし幸せ病みてしみじみ」を思い出します。

その夜、弟は私のガンの病状については一言も問うことはなく、個人経営する多忙な仕事ぶりを、消灯後の薄暗い灯りの下で力いっぱい語り、入院費の足しにと小切手をおき、師走の夜の遠路を帰って行きました。

 退院の日が近づいてきました。この聖マリアンナ医科大学西部病院は、横浜市瀬谷区の山間にひっそりと建っています。若葉台の南側から国道十六号線を横切り、野境街道を三ツ境方面に走ると、中原街道との合流地帯に建てられています。連なる雑木林は瀬谷市民の森へと続き、樹木の緑が病院を訪れる人たちに、こころの開放感を与えてくれそうです。医師及び看護婦は、カソリックの精神に基づいて診療に当たっているとのこと。しかし病院は、宗教色を出して欲しくないという横浜市の要請により、マリヤ様の像を、川崎市の菅生にある本院が、病院内に設置されているのに対し、この病院は庭の片隅に立てられ、雨ざらしになっています。それでも信者たちは、庭を散歩しながら参拝することができます。山間の森を散策して森林浴を楽しむこともでき、緑の少ない都市に建つ病院と比べたら、ここの環境は最高です。病室の窓から見える景色は、青い空と森の緑、そして澄んだ空気は患者の心を和らげるのに充分です。母の入院していた都内の大塚の病院は、緑も土もなく、どんよりした灰色の空と車の排気ガスの充満する場所にあり、闘病者にとっては環境が与えてくれる心の治療を望むのは困難です。その差の違いを痛感させられます。

 夫は私のいない間、忙しい思いをしている様子。妻が癌だからといって別に慌てる様子もなく、ごく自然体に生きている人ですが、久しぶりに見舞ってくれた夫が、私のべットに仰臥し、検温に来た看護婦を驚かせる光景を見ると、さぞ寂しい思いをしていることだろうと推察します。子供のない私たち夫婦は、たった二人が家族。今その家族が本当にありがたい。どちらが病んでも寂しい思いをします。これからの人生、夫と力を合わせて生きていこうと、心に誓うのでした。

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