Welcome Guest 
メインメニュー
サイト内検索
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録

「日常会話程度なら」という表現を考える 相原智記

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015-10-31 2:44
m-hanami  モデレータ   投稿数: 373
「日常会話程度なら」という表現を考える
            相原智記

 川端康成の作品の中にも曖昧な表現があり、読者(学校の先生)から質問を受けたそうだ。
川端のエッセイ集の中で彼自身が言及している。「へぇ」と思いながら読んでみると、幾度読み直しても確かに解りにくい。 
川端は読者の指摘に同意しながらも丁寧に文法の説明をし、「読者に読解力が求められても良いのではないか」と胸中を吐露している。 
何度読み直しても分からなかった読解力のなさに、私は恥じ入ってしまった。
そう言えば、ダンテやマンゾーニの作品にも現代人に理解できない言葉が用いられている。イタリア語が統一されていなかった時代の表現だが、それはダンテ的、マンゾーニ的表現として容認されている。彼たちだけに許されている文学上の“特権”なのだ。

私には気になっている表現がある。それは
誤った言葉でも文学に関することでもない。次のようにありきたりな1「日常会話程度
なら出来るよ」という言い回しだ。この話の軸となる一文である。これは「君、○○語は話せる?」という問いへの返事だが、その中の“日常会話”というものに対する捉え方と“程度”にどんな評価を与えているのかに興味を持っているのだ。「?程度」は、異なる分野で多くの人が習慣的に用いる言い方である。 
敢えて取り上げるのは正誤を問うのが目的ではない。私はこの表現を曖昧だと思うが、誤りとは思っていない。
私にとって日常会話とは
「難しい単語や言い回しよりも、日常に役立つ会話を教えてください」
 数年前に私がイタリア語を教えた、コックの修行でイタリアに行くという生徒さんから出た希望だ。彼の“日常会話”に対する考えがはっきり示されていて分かり易い表現だ。 
一方、1の「日常会話程度なら出来るよ」は、“程度”という言葉が低程度なのか高程度なのか曖昧に思うのである。
さて、日常会話とは一体どんなものなのだろう。日常は人によって社会的繋がりが違うので、ひとまとめにできるものではない。
国の内外で生活者として暮らしていると自然に社会関係が生まれ、それに伴い日常会話の範囲も広がり、様々な要因が交錯し内容が変化し複雑化もする。会話の進捗状況によっては知識や言語力・会話力のような要素が求められるので、複雑なものに思える。 
例えば、政治・経済・スポーツ・国内外の文化や社会の出来事・テレビ番組や映画の内容・恋愛事情・コンサートなどとテーマが多岐に渡るからだ。複数人で交わす会話ではトピックが目まぐるしく変わり、感想を述べたり意見や知識を述べたり求められたりすると、それなりの経験や知識や判断・表現力を必要とするものである。更に付け加えるなら、個人によって社会階層が異なると思想・信条、問題の捉え方、話し方、語彙の使い方、会話の構成などに特徴が出るものであり、疎通には母語を使う者同士の日常会話でも単純ではない。お互い気心が知れた者同士の会話では、言葉や文脈が多少変でもそのまま気楽に喋り合い会話が進行するが、それは話者の会話力や性格を相手が理解したうえで曖昧な表現を聞き流し、適当に相槌を打っているので話が通じているように見えるに過ぎない。
会話には或るテーマがある。話し手の思想や感情を表現し、聞き手に伝えることを目的とするものであるから、日常会話にも語彙数や表現の多様性、正確な伝達力などが求められるのは、誰にも共通したことである。行動様式や心的傾向が違う海外生活では言わずもがなである。 
『程度』が表す評価の高・低
“程度”とはものの大小・長短・優劣・美醜・価値などの割合を表し(日本語語感辞典・岩波)たり、物事を程度の低いものとみなす意味合いも含むので、表現の仕方では話し手や書き手の意図を把握できないときがある。 
この”程度“という言葉を「くらい=低程度」と「ほど=高程度」に置き換えて意味合いの違いを探る方法が言語界にある。ただ、事例によっては「くらい」と「ほど」には著しい類犠牲が見られ、単純に線引きをすることは難しいようだ。この類犠牲の部分を除外して“くらい”と“ほど”の違いを探ってみようと思い立った。
1の「日常会話程度なら出来るよ」の“程度”を「くらい」に置き換えるとどのような評価が与えられるのだろう。
1-a:「日常会話“くらい”ならできるよ」
 話し手が“くらい”に低程度の評価を与えていると私には思える文章である。1-aをもっとくだけた表現にしてみよう。「日常会話なんか簡単だから、それくらいならきるよ」。
これは話し手が何らかの基準に照らし合わせて日常会話に対し最低限のものという評価を与えている表現だが、“くらい”の持つ意味的特徴と伝達内容には整合性が取れており、何ら違和感はない。従って、”程度“を“くらい”に置き換えることで低程度を表すことが可能と言える。
次に、“ほど”を用いたらどうなるだろうか。
1-b:「日常会話“ほど”ならできるよ」
 この文章は曖昧である。“日常会話ほど難しいのなら”なのか、“日常会話ほど易しいのなら”なのか不明なのだ。“ほど”が持つ意味的特徴は、最大限のものという評価が与えられることはすでに言及した。それを基に1-bを以下のように書き換えてみた。
「日常会話のように難しいものならできる」 
不自然さを感じるのは、話し手が自分の会話能力を高く評価していると思われるからだが、それが話し手の意図かは不明である。
「日常会話ほど難しいものならできない」もしくは「日常会話ほど難しくてもできる」とした方が自然である。つまり、“ほど”の持つ意味的特徴である“高程度”が表されているが、“くらい”の持つ低程度の評価は与えられていないということである。従って、1-bは“ほど”への置き換えはできないことになる。
ここで、“くらい”と“ほど”の違いをより分かり易くするために1-bを少しだけ変えた二つの短文を並べて比較してみたい。()が付け足した部分で、*印はその説明である。
「日常会話“ほど”(複雑)ならできない」
*「日常会話ほど」の“ほど”に最大限の評価が与えられ、”日常会話“は難しいということが表現されている。
「日常会話“くらい”(簡単)ならできる」
*「日常会話くらい」の“くらい”に最低限の評価が与えられ、“日常会話”は易しい
という表現に違和感がない。

今回は“日常会話”の捉え方と“くらい”と“ほど”に最小限と最大限の評価を与えて「程度」という言い回しを考えてみた。

「日常会話ほど○○語を話せるなら、心の揺れを表現したり、映画や文学の人物の心理描写を語ったりすることができるのだ」 
私は外国語の勉強を始めた時に思った。社会的な出来事や内心を言葉で表現することが憧れだった。辞書を片手にジャコモ・レオパールディの詩やカルロ・カッソーラ、イニャーツィオ・スィローネの小説を乱読し、作品の舞台や作家の生誕地を訪ね風土に触れ、登場人物と作家の心情に思いを馳せたりもした。 
それは知人たちとの会話の材料となり、コミュニケーションに大きく役立っていた。
「ほど」と「くらい」の違いを調べる作業はその延長線上にあるが、意に反して難しく、何度も中断を繰り返してしまった。
どこまで表現できたか不安であるが、読んで下さる方に読解力を求める程の勇気はない。 

推奨数:0 平均点:0.00

  条件検索へ


XOOPS Cube PROJECT