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本牧ブルース    東久世 章(ひがしくぜ・あきら)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2016-7-7 15:54 | 最終変更
m-hanami  モデレータ   投稿数: 373
 小説「本牧ブルース」

主な登場人物

★上松雪枝(26歳) 旧華族出身。幼年期?高校時代は上海、米国で育つ。1939年、19歳で帰国後は片瀬に住み、戦中は小諸に疎開。戦後は得意の英語を活かし米国の航空会社に勤務。あるパーティーでヘンリー・デュボア少佐と出会う。

★ヘンリー・デュボア少佐(31歳) 米国メイン州ポートランド出身 家業はレストラン。得意のフランス語を活かし戦時中はヨーロッパ戦線で情報部勤務。その後GHQに転属。1946年2月に来日。GHQ民生局(GS)勤務。あるパーティーで上松雪枝と出会う。

★リチャード・ファーガソン(29歳)アメリカ:テキサス州ダラス出身の弁護士。通称:ディック。横浜・本牧のバー「ポートホール」のオーナーでもある。ヘンリー・デュボア少佐の親友。

★森田良蔵 元日本陸軍兵卒。上海、満州、南方方面と転戦し沖縄で終戦を迎える。戦後は料理の腕を活かし本牧「ポートホール」のチーフとして働く。

★チャールズ・L・ケーディス大佐 デュボア少佐の上司。GHQ民生局(GS)局長代理。 日本国憲法制定や労働組合設立推進などに関わり、戦後の日本の民主化に尽力したが対立する組織:GHQ参謀第二部(G2)との権力闘争に巻き込まれる。


 前置き
 
 「本牧ブルース」
戦争、それは多くの人々の運命を引き裂く…と同時に結び付ける。
1946年、連合軍による占領下の日本。まだ空襲の爪痕も生々しい
港街:横浜のはずれ、本牧のバー「ポート・ホール」から物語は始まる。
日本を新たな民主国家に生まれ変わらせるべく理想に燃える
連合軍総司令部(GHQ)民生局(GS)の将校:デュボア少佐と
旧華族出身の美女:雪枝の恋。
しかし、その恋の前途を暗雲が覆う。
共産主義の台頭により、世界は再び緊張状態へと向かっていたのだ。
さらにGHQ内部に吹き荒れる権力闘争の嵐。
それは、日本の民主化を推進しようとする[GS]と、
日本を共産主義に対する防波堤にすべく暗躍する[G2]という
GHQ内の二大勢力の争いだった。
互いの諜報活動は次第に熾烈さを増し、怪事件が発生し謎の死を
遂げる者も出る。
日本の戦後史の中でも特に謎の多い「連合軍占領時代」の暗部を描くラブ・ストーリー。「本牧ブルース」

  

「本牧ブルース」Season 1

Scene1)「ポートホール」1946年9月20日(金)

「ひどい風だなあ」
「少佐、台風が進路を変えてこちらに向かっているそうですよ」
「そうか…まあ、軽くビールでも飲んでから帰ろうか」
二人の将校はジープを降りると白い看板に青いペンキで「PORT HALL」と書かれた小さなバーに入っていった。
「ヘイ!ヘンリー!」
大きな声がしたと思うと濡れた布巾が飛んで来た。ヘンリーと呼ばれたデュボア少佐がサッと身をかわすと布巾は部下のマケイン少尉の顔面に当たった。
「ぎゃ!」
マケイン少尉は声にならない叫びをあげた。それを見るとデュボア少佐は少し怒った声で言った。
「ディック!悪ふざけが過ぎるぞ。マケインは先週日本に来たばかりなんだからな。これが日本の挨拶だと思われると困る」
「すまない!マケイン少尉殿、お詫びにビールをご馳走するよ」
「わははは、じゃ俺にもな、ディック。ビール二本だ」
デュボア少佐とマケイン少尉は並んでバーのスツールに腰掛けると店内を見回した。
テーブル席が五つと十人程が座れるL字型のバーカウンターのある小さな店だ。ジュークボックスから切ないメロディーが流れていた。インク・スポッツの「ジプシー」だ。
「何だ、ディック、客が全然いないじゃないか」
ディックと呼ばれた店のオーナーと思しき髭面の男は応えた。
「まだ夕方の5時だ。オープンしたばかりなんだよ」

このポートホールと言うバーはオーナーのディックが三か月ほど前にオープンしたばかりで、横浜の外れ…本牧にあったが米軍基地からも近く、夜になると軍人達でごった返していた。ディックは元々腕利きの弁護士だったが、あるコネでこの店を手に入れると本業そっちのけで経営に熱中していた。
「なぜって?こっちの方が楽しいからな」
ディックはよく周囲の人間に漏らしていた。実際、このポートホールの人気は彼の明るい人柄に寄るところも大きかったが、繁盛している理由はもうひとつあった。それは当時の日本ではまだ珍しかった本格的なピザを出していることだった。米兵達は大好きなピザと冷えたビールさえあれば文句なしだった。
「で、ヘンリー、どうなんだ?仕事の方は?」
ディックがバーの中でグラスを磨きながらデュボア少佐に尋ねた。
「ああ、相変わらず『2の奴ら』との戦いの日々さ。このマケインは大丈夫。身内だ。ヨーロッパでずっと俺の部下だった男だからな」
デュボア少佐の言う「2の奴ら」とは当時のGHQ参謀第二部のことで、デュボア少佐の属する民生局(GS)とはことごとく対立していた。G2を指揮しているウィロビー准将は狂信的な反共主義者…いやむしろファシストに近いような男で「小ヒトラー」のあだ名があるほどだった。彼の持論は「共産主義者を絶滅させるためなら悪魔とも手を握る」と言うくらいで、旧日本軍の軍国主義者だろうが戦犯だろうが、ヤクザだろうが誰彼かまわずに自分の陣営に取り込もうとした。そして、デュボア少佐ら民政局(GS)にとって、最も大きな悩みの種は「日本の民主化」を推進してきた彼らGSの努力を踏みにじろうとする「G2」の横暴な振る舞いを、最高権力者であるマッカーサー元帥が見て見ぬふりをしていることだった。
デュボア少佐の上官であるケーディス大佐はよくこぼしていた。
「G2は、まるでゴロツキの巣だ」

「カラーン!」
突然店のドアが開き兵士たちの一群が店になだれ込んできた。
「ヒャッホ?!」
「さあ、おいでなすったぞ。海兵隊の上陸だ」
デュボア少佐はマケイン少尉に目配せすると、ビールをグッと飲み干した。
「少尉、そろそろ行こうか」
「はい、ごちそう様でした」
「礼はディックに言ってくれ」
ディックは笑いながら軽く敬礼して見送った。
港街ヨコハマの夜はまだ始まったばかりだった。




Scene2)「雪枝」1946年10月12日(土)

雪枝はガウンを羽織ると、窓際に立ちジッポーのライターで煙草に火を点けた。薄紫色の煙がゆっくりと立ち上り、天井を這った。ラジオからシナトラの歌が低く流れている。
雪枝は微かな声でハミングしながらゆっくりと身体を揺らした。
「Yuki 起きているのか?」
籠ったような男の声がした。ベッドにもぐったまま話しているのだ。ブロンドの髪が毛布から覗いている。
「ヘンリー、まだ寝てていいわよ。私、何だか頭が冴えてしまって」
雪枝は煙草の煙を吐きながら応えた。
彼女の英語は完璧だった。訛りが全くない…強いて言えばカリフォルニア風の鼻にかかったアクセントだ。幼少期は上海。七歳から十七歳までロスアンジェルスで育った。その後一年に満たない日本での生活。そして父の転勤でニューヨークへ。そこに三年いて帰国した。本当は帰りたくなどなかったのだが、日米間の雲行きが怪しくなり始め、母と二人で帰国したのだった。学校のノートに「ファシスト」と落書きされた日のことは忘れない。それでも庇ってくれた友人たちもたくさんいたのは嬉しかった。
しかし、歴史の大きな波は個人の運命など簡単に飲み込んでしまう。アメリカに残った父は日米開戦と同時にスパイ容疑でFBIに拘束され、サンタフェの収容所で一年半過ごした後、捕虜の交換船で帰国した。やっと叶った親子三人の暮らし、それも半年ほどで終わった。父が満州勤務を命じられ、母と二人で大陸に渡っていったのだ。雪枝はしばらく片瀬の親戚の家に身を寄せていたが、空襲が次第に激しさを増して来たため小諸に疎開し、そこで終戦を迎えた。思い出すのもおぞましい疎開先での生活…雪枝は思わず身震いした。そして敗戦。全ては変わった。いや、まだどうなるかわからない。日本は未だ混乱の真っただ中にあった。
「でも、私は幸せ」
雪枝はつぶやいた。
昨日から愛する人と軽井沢で過ごしている。この小さな別荘も父が何とか守り抜いて失わずに済んだ。小さいので米軍の接収の対象にもならなかったのだ。窓からは秋色に染まり始めた森の木々の連なり、そして遠くに煙る浅間山はもう初冬の気配すら漂わせていた。
「コーヒーを入れたよ」
ヘンリーの声がした。
「今日はゴルフをやろうか?」
「いいわよ。賭ける?」
「おお!自信たっぷりだね。夕食のチャイニーズを賭けよう」
ヘンリーは雪枝を後ろから抱きながら言った。
「Yukiはテニスもゴルフもうまいからなぁ」
ロスの高校で雪枝はスポーツ万能で有名だった。恵まれた体格はアメリカの少女たちと比べても全く引けをとらなかったし、テニスの地区大会で優勝したことも、アメリカ人のコーチに求愛されたこともある。家に毎日花束が届いて両親が仰天していたのを思い出す。そういえば牛乳配達の少年からラブレターをもらったこともあった。時々牛乳が一本余計に入っていることがあったので不思議に思っていたのだが、それで謎が解けた。そして、ニューヨーク時代にゴルフを手ほどきしてくれた「あの人」のことも心をよぎった。
彼は四歳年上の日本人留学生でアメリカの大学で政治学を勉強していた。彼の父親が政治家だったので当然彼も後を継ぐつもりだったのだろう。しかし、戦争は彼と彼の父親の運命を大きく変えた。彼は軍務に就き、終戦直前に満州でソ連軍に捕えられ捕虜として未だにシベリアで抑留されているらしい。そして、彼の父は戦犯として裁かれる前に青酸カリを飲み自らの命を絶った。
「どうした?何だか悲しそうだね?」
ヘンリーが心配そうに雪枝の顔を覗き込んだ。
「いいえ、何でもないわ。朝食はどうする?卵でも焼きましょうか?」
雪枝はキッチンに入っていった。
「あなたは?オーバーイージーでいいの?」
「ああ、僕も同じでいいよ」
雪枝はフライパンに卵を四個割り入れると、蓋の隙間から水を注いだ。シューっと蒸気があがり黄身の表面に白い膜ができる。
食卓ではヘンリーが「Stars and Stripes(星条旗新聞)」を読んでいた。眉間にしわが寄っているのを見て雪枝は尋ねた。
「なあに?また嫌なニュース?」
「朝鮮だよ。どうも嫌な予感がする。大邱(テグ)の事件がまだ片付いていないし、北側の動きも不気味だ」
「大邱の事件」とは10月初めに大邱で起こった暴動で南朝鮮政府軍と米軍によって100名以上の市民が射殺されていた。米軍による南朝鮮の統治は日本ほどうまくいっていなかった。さらに何と言ってもソ連が占領している北側の脅威は大きかった。北では現在急速に共産化が進んでいると聞いている。住民たちに対する残忍な粛清も行われているらしい。そして隙あらば38度線を越えて進行してくる可能性は十分あった。彼らにとって南側は「未解放」の地域なのだから。
「このままで終わるとは思えないんだ」
ヘンリーは新聞を置くとコーヒーをすすった。
「ヘンリー、せめてここにいる間は仕事のことは忘れて。私は朝鮮とか満州とか聞きたくないわ」
「わかったわかった…Yuki。胡椒をとってくれないか?」
雪枝は黙って胡椒入れをつかむとテーブルの上を滑らせた。





Scene3)「GS VS G2」1946年10月22日(火)
東京丸の内、連合国軍最高司令部:GHQの置かれている第一生命館六階にヘンリー・デュボア少佐の所属する民生局(GS)の本部は置かれていた。窓からは皇居が見下ろせるこの場所に、アメリカ政府が最高司令部を置いたのは完全に意図的なものだった。その意図とはつまり「我々は天皇よりも上である」という現実を日本国民に見せつけることに他ならない。そして終戦から今日までのところ統治はうまくいっていた…表面上は。
「デュボア少佐、ケーディス大佐が執務室でお呼びですよ」
秘書のジェーン・ホールデンが伝えた。部内では女優のビビアン・リーに似ていると評判の美人だ。ジョージア出身、甘ったるい南部訛りが魅力的に響く。
「で、ジェーン、今日の大佐のご機嫌はどうだい?」
「何かとてもお怒りのようですよ。先ほどまであちらにいらっしゃったんですけど」
ジェーンはドアの外を指差しながら顔をしかめた。
「あちら」とは廊下の奥にあるマッカーサー元帥の執務室だった。もともとは第一生命の社長室だった部屋である。ケーディス大佐が不機嫌ということは、またウィロビーともめたのかも知れない。ヘンリーの上司ケーディス大佐と参謀第二部(通称G2)のウィロビー准将は犬猿の仲だった。日本の統治を巡る諸問題のあらゆる面で対立していた。
「入りたまえ」
ヘンリーがケーディス大佐の部屋のドアをノックすると不機嫌な声が響いた。
「全く話にならん!」
ケーディスはヘンリーが部屋に入るなりパンチを繰り出すような勢いでまくし立てた。
「ウィロビーの奴、労働組合はアカの巣窟だと抜かしやがった!だからスパイを送り込む必要があると」
「え?スパイですか?大佐」
ヘンリーは耳を疑った。
「そうだ、スパイだよ。旧日本軍の諜報機関や秘密警察にいた者達を集めて労働組合に忍び込ませ情報を得る…それだけじゃない、妨害工作までさせようというわけだ」
「しかし、それでは我々が苦労して作り上げてきた日本の労働者の権利を守るための…」
「そんなことはどうでもいいと奴はハッキリ云ったんだ。とにかく今は共産主義者から日本を守らなければならないと。それ以外のことはどうでもよいと」
「で、大佐、マッカーサー閣下はそれに対してどうおっしゃったんですか?」
「例の調子だよ。ヘンリー、君も知っての通り閣下は次期大統領の椅子を狙っている。当然、今はどこにも敵を作りたくない。だから誰に対しても『うむ…君のいうことはもっともだ』しかいわないんだ」
弁護士上がりのケーディスにとって「理屈抜き」の発言を繰り返すウィロビー少将は最も許せないタイプの人間だった。さらにユダヤ系のケーディスは、アメリカに帰化したとは言えドイツ人のウィロビーに対して本能的に反発してしまうのは仕方がない部分もあった。
「ヘンリー、君も気を付けた方がいい。G2の奴らは我々をも狙っているぞ。何か弱みを見つけて失脚させようとしているんだ。そう言っては何だが、君の付き合っている日本人女性…何と言ったっけ?Yukiか?彼女の事も嗅ぎ付けているはずだからな」
「大佐、お言葉ですが、彼女とのことはプライベートですから…」
「ヘンリー、君はポートランドに妻と子供がいるだろう?」
「ええ…しかし、そのことはYukiも知っていますし…」
「ヘンリー、G2の奴らを甘く見ない方がいいぞ。奴らは勝手にストーリーを作り上げてしまうんだ。君の火遊びのストーリーをプレスの連中に漏らしたら、きっと尾ひれがついてとんでもない記事になるかも知れないぞ」
「はい、気を付けます、大佐。しかし、向こうがそう来るなら、我々も逆襲に出たらどうでしょうか。ウィロビーの弱点を探ってみては?」
「それはもう試みている…が、ガードが固くてダメージを与えるのは至難の業だ」
「そうですか。私の方でも何か対策を考えてみます」
「うむ、我々は今や日本軍よりも手強い相手に遭遇していると考えてくれ」
「はっ!了解しました!大佐」
デュボア少佐は敬礼して部屋を出た。
確かにこのところ少し羽目を外し過ぎたようだ。これからはYukiに会うのももっと慎重に動かなければならないだろう。ヘンリーは自室に戻ってからもG2に対する反撃の方法をあれこれと考えていた。窓際に立ってぬるいコーヒーをすすりながら眼下の皇居を眺めていると、突然アイディアが閃いた。
「そうだ、ディックに相談してみよう」
ディックとは横浜のバー「ポートホール」のオーナーのことだった。本業は…最近サボり気味とはいえ…弁護士だったし、きっと今でも様々な情報が耳に入って来ているはずだ。
ディックは本名をリチャード・ファーガソンと言い元々は東京裁判の首席検察官であるジョセフ・キーナンの秘書団の一員として来日したのだが、途中で職を辞し横浜に自分の弁護士事務所を開いたのだった。テキサス出身の荒削りな気性のせいかキーナンとはたびたび衝突し、ついに飛び出したらしい。ヘンリーから見ると「正義感が強過ぎて組織には向かないタイプ」の典型だった。しかし、その情報収集能力はずば抜けていた。ヘンリーは電話を取るとディックに調査の協力を依頼した。
「もちろんそれなりの報酬は払うよ。調査の費用はしっかり予算から取れるから大丈夫だ。一週間後に行くからよろしく頼むよ」
ヘンリーは電話を置くとこぶしを握り締めつぶやいた。
「よし、反撃開始だ!見てろよ、G2め!」



Scene4)「横浜の夜」1946年10月26日(土)

その週末、ヘンリーと雪枝は本牧のポートホールのバー・カウンターに座っていた。雪枝はジントニックのグラスを傾けながら店の壁に掛かっている時計を眺めた。五時四十分、夜はまだこれからだ。客は自分たち二人、そしてテーブル席に海軍の下士官と白人女性のカップルだけ。バーの中にはオーナーのディックとチーフの森田がいた。チーフの森田は年の頃は20代後半。元日本陸軍の帰還兵で、軍では厨房担当だったおかげで餓死しないで済んだといっていた。終戦時は沖縄にいたと聞いている。普段は寡黙な森田だったが今夜は違った。先日この店で起こった銃撃事件について雪枝に熱く語り始めたのだ。
「でね、その黒んぼの兵隊が…まあ、当てるつもりなんか最初からなかったらしいんですけどね、カウンターの白人に向かって一発ぶっ放したんですよ。ここに弾の後があるでしょう?」確かにバーの後ろの棚の一部が欠けて中の白木が見えている。
「でね、そん時、ディックさんも見習いの充も床に這いつくばってたんですよ。でもね、俺は焼きあがったピザをそいつのところに持って行ってカウンターに置いたんですよ。『へい!お待ち!』ってね。だって冷めたら美味しくないしね、だいたいアメちゃんの弾なんか怖がってたら、生きて帰って来れなかったからね」
そこまで一気にしゃべると、森田はヘンリーの奢りのウィスキーをぐっと煽った。雪枝は森田の話を掻い摘んで英語に訳しヘンリーに聞かせた。
「ははは!チーフのピザには大和魂がこもっているようだね。で、ディック、銃撃はしょっちゅうあるのか?」
ヘンリーが尋ねるとディックは首をすくめて答えた。
「いや、銃撃はこの店では初めてだな。喧嘩は時々あるが。でも他じゃ珍しくないって聞いているよ。幸い怪我人もなくてMPに調書を取られただけで済んだよ」
「うむ。やはり人種問題か?」
「わからないな。海兵隊の連中はとにかく気が荒いからな」
ディックは首を振りながら答えた。
「カラーン!」
入り口のカウベルが鳴り男が二人入って来た。
白人の士官とスーツを着た小柄な東洋人の男だ。
「ここ、よろしいですか?」
東洋系の男は雪枝の隣のスツールを指差し英語で尋ねた。
「どうぞ」
雪枝が答えると二人はスツールに座りビールとピザを注文した。
東洋系の男は流ちょうな英語で士官と話している。どうやら日本人ではないらしい。
雪枝が二杯目のジントニックを注文すると、その東洋系の男は雪枝に話しかけてきた。
「失礼ですが日本の方ですか?」
「はい、そうですけど…」
「いや、あなたの英語があまりに流暢なので二世かと」
「いえ、ずっと向こうで育ちましたので」
「とおっしゃると、アメリカの?」
「はい、LAとニューヨークにおりました。あなたは?」
「ああ、申し遅れました。ジミー・コサカです。ハワイ生まれの二世です」
「アメリカの方ですか。でも軍人ではないですよね?」
雪枝はあまり自分のことを話したくなかったので、自分から質問を浴びせた。
「はい、民間人です。主に通訳として働いています」
「じゃあ、日本語もおできになるのね?」
「モチロンデ?ス。ハハハ!カンパ?イ!」
ジミー・コサカと名乗る男はビールのグラスを持ち上げると雪枝とヘンリーに乾杯を求めてきた。ヘンリーはあまり気乗りがしないのか渋々グラスを掲げた。
「失礼ですが、そちらにいらっしゃるのはデュボア少佐では?」
ヘンリーはギョッとして思わずジミー・コサカを睨んだ。
「いえね、GHQのオフィスで何度かお見かけしたので。少佐は民生局所長のケーディス大佐の片腕と言われていますから有名人ですよね。ハハハ…」
ヘンリーは不愉快そうに応じた。
「ミスター・コサカ、ケーディス大佐は民生局所長ではなく所長代理だよ。所長はホイットニー准将だ」
「ああ?これは失礼。ケーディス大佐があんまり目立つもので勘違いしてしまいましたよ」
ヘンリーは雪枝の脇腹をつついて目くばせした。「出よう」という合図だ。
雪枝はまだ半分以上残っているジントニックを一気に飲み干すと立ち上がった。
「じゃあ、ディック、今夜はこれで失礼するよ。チーフによろしくな」
「ああ、ヘンリー、ユキ、素晴らしい夜を!」
森田が厨房の小さな窓から二人に軽く会釈した。店が混み始めて厨房内はてんてこ舞いのようだ。

ポートホールの外に出た二人は路上に止めてあったヘンリーのワインレッドのフォードに乗り込もうとした。その時ドアに手をかけた雪枝がいった。
「ねぇヘンリー、ちょっと歩かない?」
「いいよ」
二人はポートホールの裏側に出て、波止場の方にぶらぶらと歩き始めた。
「あのジミーっていう奴、怪しいわね?」
「え?どうしてそう思う?」
「だって、ハワイ生まれのくせに訛りがないし、それに時々奇妙なイギリス訛りが混ざるのよ」
「それは僕も気づいていた。あいつは多分日本人だよ。香港かどこかで英語をおぼえたんだろうけど…店に来たのも偶然じゃないかも知れない」
「え?どういうこと?」
雪枝は怪訝な顔でヘンリーの顔を覗き込んだ。
「Yuki、どうやら我々を監視している者がいるらしいんだ。この前、ケーディス大佐にも注意されたんだが、どうもG2の奴らがスパイ活動を始めたらしい」
「え?何を言っているの?スパイって…味方同士でしょ?まさか、あなたがコミュニストだとか?」
「Yuki、違うんだ。これはGHQ内部の権力闘争なんだよ。君には理解できないかも知れないが…」
雪枝は黙っていた。日本との戦いが終わっても男たちは別の戦いを始める。何か戦いの理由を見つけようとしているようにしか思えなかった。
「それで、私たちの何をスパイしようとしているわけ?」
雪枝は少し苛立ったように尋ねた。
「スキャンダルだよ。アメリカ軍人と日本の貴族の娘の道ならぬ恋。きっと新聞記者が喜ぶ」
「え!そんなことをしたら米軍全体のイメージダウンになるでしょう。バカバカしい」
雪枝はもうこんな話はしたくなかった。せっかくの土曜日の夜の雰囲気が台無しになってしまう。
「Yuki、気分を害したら謝る。でも、これだけは言っておくよ。もう今までのように二人で大っぴらに出かけるのは難しいと思う」
海からの冷たい風と思いがけない話で雪枝はすっかり酔いが冷めてしまった。
「じゃあ、もうあまり会えないのね。ヘンリー、はっきり言って。別れたいなら、今ここでそう言って」
「Yuki、そんなことは言ってないよ。君を愛している」
デュボア少佐は雪枝を抱きしめた。
雪枝は安堵感と同時にこの恋が脆いものだということを改めて感じていた。そして「もう先のことを考えるのはやめよう。今、この瞬間だけを大切にしよう」と心に刻んだ。そうだ、今夜はニューグランドに部屋がとってある。
「ヘンリー、ホテルに戻りましょう」
「ああ、そうだな。温かい部屋で飲みなおそう」
二人は車の方に歩き始めた。路上では酔っぱらった水兵たちの一団が騒いでいた。そうだ、今日は土曜日の夜だ。




Scene5)「森田の告白」1946年10月30(水)

ヘンリー・デュボア少佐は黒の公用車で丸の内から国道を一路南へ、横浜:本牧のバー「ポートホール」に向かっていた。オーナーのディックから情報が入ったとの連絡があったのだ。隣には部下のマケイン少尉がハンドルを握っていた。午後三時の約束だったが途中ジープの横転事故のせいで道路が渋滞し遅くなってしまった。
「もうすぐ三時半か。まあ仕方がないな…」
ヘンリーがつぶやいた。
「しかし、少佐殿、日本の道路は左右が逆で走るのが怖いですね。特に曲がる時、反対車線に入ってしまいそうになります。さっきのジープもきっと錯覚して横転したんですよ」
マケイン少尉が首を振りながらいった。
「うむ、日本は昔、英国をお手本にしていた時代があるんだよ。交通ルールもその名残だ」
「なるほど。だったらこの機会にアメリカ式に改めてもらいたいですね。もちろん標識も全部英語にして」
「いや、マケイン少尉、日本人は自分たちの言葉や文字に強い誇りを持っているんだ。そんなことをしたら、せっかく収まってきた我々に対する敵意にまた火を点けることになる。彼らの伝統文化と天皇には手を触れない方がいい。これはマッカーサー閣下も理解していることだ」
車は元町を抜けて本牧通りに入った。空襲で焼け焦げた建物や街路樹が所々放置されている。
「そこで止めてくれ」
ヘンリーは店からワンブロック手前に車を止めるように言った。ディックの店の前に公用車が止まっているのは見られたくない。
ポートホールのドアを開けると、ディックとチーフの森田がテーブル席に座ってコーヒーを飲んでいた。ヘンリーは怪訝な顔でディックに尋ねた。
「なぜチーフを呼んだんだい?」
「ヘンリー、チーフが重要な証言をしてくれたんだよ。彼の証言を英語に翻訳したものがこれだ」
ディックはタイプで打った紙の束をひらひらさせた。
「だから、君たちにこれを渡すことを彼にも了承してもらうために一応ここに来てもらったんだよ。必要とあればGHQで証言もしてくれるそうだ。チーフ、ダイジョウブネ?」
ディックは最後の言葉だけ日本語で言った。
「はい、ディックさん、大丈夫です」
森田はほとんど英語ができなかったが、話の内容には納得しているようだった。
「それで?チーフはいったい何を話してくれたんだい?」
ヘンリーは森田のもたらした情報について全く見当もつかないという表情でディックに尋ねた。
「そのリポートにはもっと詳しく書いてあるんだが、掻い摘んで言えばあのジミー・コサカという男とその背後にある組織のことだ」
「ジミー・コサカ?あの男、やはり只者ではなかったか」
ジミー・コサカとは、先週末、ヘンリーと雪枝がこのポートホールで飲んでいる時、隣に座って話しかけて来た自称「ハワイ出身の日系二世」の男である。
森田の証言によればあのジミー・コサカは実は日本人で、本名を吉田栄吉と言い、元々は上海、香港あたりで麻薬の売買やヤクザのようなことをして生きていた男だそうだ。当時上海に駐在していた日本の軍部ともつながっており、特に情報部の山路中佐という将校と組んで麻薬取引だけでなく娼館の経営や人身売買のようなことにも手を染め、かなり荒稼ぎをしていたらしい。ところが、ある時、地元のグループともめ事を起こし中国人の男女三人を射殺してしまい、一旦は憲兵隊に連行されたものの、三日後には釈放されてしまったそうだ。恐らく山路中佐が手を回して事件をもみ消してしまったのだろう。森田はその事件があった夜、ちょうど巡回の当番で、吉田が拳銃を手に事件現場近くの路地から出てくるところを目撃してしまったのだという。
その時、吉田は森田と同僚の亀井という兵士に大金を手渡し、「何も見なかったことにしてくれ」と頼んだそうだ。森田はその時は事情が分からず金を受け取ってしまったのだが、後に殺人事件のことを知り、良心が咎めたので上官に報告することを申し出たのだそうだ。「吉田がその夜、拳銃を持って現場近くにいるところを目撃した」と。すると報告する予定日の前日に突然森田と亀井に転属命令が出て、二日後に満州に送られたとのことだった。
ヘンリーはここまで聞くと、話を反芻するようにしばらく黙っていたが、やがてディックに尋ねた。
「ジミー・コサカが実は日本人で、本名は吉田という犯罪者だということはわかった。しかし、その男がなぜ我々の周辺を嗅ぎまわっているんだね?」
ディックは「待ってました」とばかりに身を前に乗り出して答えた。
「ジミーいや、吉田はG2(GHQ参謀第二部)にスパイとして雇われたんだよ。日系二世に成りすましてね」
「なに?ジミー・コサカはG2の手先か?」
「そうだ。G2は犯罪者や元日本軍の戦犯を次々と雇って様々な工作に利用しているんだ。彼らの過去に目をつぶるという条件で。その後調べた結果、上海に駐留していた山路中佐も名前を変えてG2のスパイになっているようだ。山路中佐も戦時中はジミー・コサカと組んで色々な悪事を働いていた男だ」
ヘンリーは絶句した。ここまでG2の謀略が進んでいるとは…。
これを聞くとマケイン少尉は首を振りながらこういった。
「全く信じられませんね。だって旧日本軍の戦犯と言えば、我々の仲間を殺した憎い敵じゃないですか。G2がそんな奴らを雇うなんて、これをアメリカ国民が知ったら何というか」
ヘンリーはマケイン少尉にいった。
「少尉、G2のウィロビー准将にとっては、今や最大の敵は共産主義者であり、その邪魔をする我々も排除すべき対象なんだよ。そのためには、戦犯だろうがヤクザだろうが誰でもかまわず雇うということだ」
「ヘンリー、ちょっと聞いてくれ」
ディックは改まった表情で付け加えた。
「俺は個人的にはGHQ内部の権力闘争に巻き込まれたくはないが、一応、弁護士として忠告しておく。君たちGS(GHQ民生局)は脇が甘いぞ。ヘンリー、君の私生活だけでなく君の上司のケーディス大佐の女性関係も含め、もっと気を引き締めないとGS自体がつぶされかねないぞ。あいつらは何でもする。敵を消すためには手段を選ばない連中だ」
「わかった。ディック、そしてチーフ、貴重な情報をありがとう。彼らのスパイ活動については引き続きもっと詳しく調べてくれ。我々も気を引き締めてかかるよ。では失礼する」
デュボア少佐とマケイン少尉は店を出た。二人とも無言だった。空には黒い雲がかかり、今にも雨が降りそうな湿った風が吹いていた。



Scene6)「ブラックメール」1946年11月3日(日)

雪枝が南青山の自宅を出たのは午後四時過ぎだった。白金の両親の家までは車で三十分くらいの距離だ。雪枝の運転するクリーム色のシボレーは青山通りから霞町に向かった。日曜日のせいか車の数はまばらだ。
いったい何の話だろう…父から電話があったのは一昨日のこと。何やら深刻な口ぶりで、理由を聞いても「とにかく会って話そう」の一点張り。雪枝も仕方なく会いに行くことにしたのだった。
雪枝は両親と会うのは嫌ではなかったが、最近は何かと小言が多く疎遠になっていた。雪枝の父は京都の公家の出だったが、京大法学部を卒業後、貿易商社に勤務しアメリカ暮らしも長かったせいか、様々な面で鷹揚なところがあった。一方、長州・萩の由緒ある武家出身の母は頑固なだけでなく相変わらず一人娘の雪枝には厳しかった。子供の頃のように物差しで打たれることはなくなったものの、会うたびに辛辣な言葉を浴びせて来た。それは雪枝の服の趣味や髪形、化粧などから始まって、雪枝がいつまでも結婚しないことに対する批判で終わるのだった。今は別々に住んでいるから良いものの、あの母とはとても一緒に住めたものではない。
国道から狭い裏道に入ると雪枝は公園の脇に車を止め、両親の家まで百メートルほどの距離を歩いた。キャメル色の大きなバッグにはヘンリーから預かったクッキーの缶と父の好きなスコッチ「オールドパー」が入っている。「ご両親によろしく」とヘンリーは言っていたが、その言葉を両親に伝えるつもりはなかった。雪枝が既婚者の米軍将校と交際していることを親戚たちがどんな目で見ているか、また、そのことで両親がどんなに肩身の狭い思いをしているか、痛いほどわかっていたからだ。特に父の親族は旧華族階級に属していたため、戦後その特権を剥奪され、困窮している者も少なくなかった。雪枝がGHQ所属の米軍将校と遊び、シボレーを乗り回す姿を見てどんな感情を抱いているか、それは雪枝にもわかっていた。「特権を失ったって?そんなの自業自得よ。馬鹿な戦争を始めた自分たちが悪いんじゃない」と雪枝は内心思っていた。しかし、それを表に出すほど浅はかではなかった。
海老茶色に塗られた門をくぐると、きれいに手入れされた前庭が見えた。呼び鈴を鳴らしたが返事がない。
「入るわよ」
雪枝は大きな声で言いながら扉を開け家の中に入った。居間からラジオの音が聞こえる。
「♪リンゴはなんにも知らないけれど♪」
今年になって大流行している「リンゴの唄」だ。
雪枝はこの歌が特別好きではなかったが、最近の歌は呑気でいいと思っている。とにかく「軍歌」だけはもう勘弁だった。
「お父様、お土産があるわよ」
居間に入るとテーブルの上に置かれた新聞が目に入った。「けふぞ平和国家進発の日」「日本国憲法公布」と大きな見出しが躍っている。雪枝は新聞の大見出しも嫌いだった。戦時の勇ましい見出しの数々の記憶…自分たちが国に騙されていたことが改めて思い出され苦々しい感情でいっぱいになる。
「でも、この新しい憲法は良さそうね」
雪枝はこの新憲法制定の裏にヘンリー達GHQ民生局の苦労があったのを知っていた。
「ベイビーが誕生するのを待っている気分だよ」
ヘンリーはこの日本国憲法公布の日を心待ちにしていた。
「雪枝かい?」
父の声がした。軍手をして鋏を持っている。庭木の手入れをしていたらしい。
「今来たばかりよ。お母様は?」
「ああ、マサと一緒に買い物に行っているよ。もうそろそろ帰ってくると思うが」
「お父様、オールドパーがあるわよ。それとクッキーも」
「ああ、ありがたいね。後でいただくとしよう」
「それで、話って何なの?」
「うん、さっそくだがこれを見てくれ」
父は居間の引き出しの奥から白い封筒に入った手紙のようなものを出してきた。
「何これ、英語じゃない」
「そうなんだよ。タイプで打ってある」
封筒には日本語で父の名前と住所が書いてあったが中身は英文だった。その文面を読み進むにつれ雪枝の表情は曇っていった。
「何?これはブラックメール(脅迫状)のつもり?」
雪枝は不愉快そうにその便箋を睨んだ。
内容は妻帯者であるデュボア少佐と雪枝の交際を好ましくないものと指摘し、これが表沙汰になった場合に起こり得る問題について触れていた。中でも「デュボア少佐の失脚の可能性」という言葉は雪枝に衝撃を与えた。そして、最後に雪枝の父が最近支社長に就任した件にも触れ、「せっかくの慶事」を娘の親不孝な行為が台無しにしてしまう可能性についても触れていた。
手紙を読み終えた雪枝の手は震え、目は怒りに燃えていた。
「大丈夫かい?何か飲み物を持って来よう」
父は立ち上がり台所に入って行った。
「ただいま」
ちょうどその時、雪枝の母と女中のマサが帰って来た。
「あら、雪枝、来てるの?」
雪枝は母に動揺した様子を見せたくなかったので、あわてて洗面所に行き、鏡を覗き込んだ。父は母にはこの手紙のことは伏せていた。内容を知った時の母の反応が恐ろしかったからだ。母は以前から二人の交際には猛反対していたから、この手紙の内容を知ったら烈火のごとく怒るのは目に見えていた。
とにかく、この話は父との間の秘密にしておかなければならなかった。食事の間も雪枝の心はそこにはなかったし、母も、あえて深い話は避けているようだった。父も気を使っているのか、知人たちの消息や当たり障りのない話題ばかりを口にした。
帰りの車の中で雪枝は決意を固めていた。ヘンリーに会って何もかも話そう。別れるかどうかなどは、その先の話だった。とにかく、これは早急に対策を練らなければならない。雪枝のバッグの中には父から受け取ったブラックメールが入っていた。どの筋から来たものか大体の推測はできたが、後はヘンリーに調査を任せよう。とにかく帰ったら電話をしよう。雪枝は不安な気持ちを抱えながらも、一方では興奮している自分に気づいていた。まるで自分がヒッチコックの映画の主人公になったような…そんな気分になっていたからだ。
「卑劣な奴らを叩き潰してやる」
雪枝はハンドルを握る手に一段と力を込めアクセルを踏み込んだ。


Scene7)「東京ローズ」1946年11月5日(火)

ヘンリーがポートホールに着いたのは夜の七時過ぎだった。店に入ると真ん中のテーブル席の周囲に十人ほどの米兵達がビールを片手に集まり、その中心には痩せた東洋系の女が座り大きな声で何やら話していた。ヘンリーはその女を横目で見ながら真っ直ぐに店の奥にあるバー・カウンターに進み、オーナーのディックにビールを注文すると尋ねた。
「誰だい?あの女は」
「ああ、彼女は『東京ローズ』だそうだ…自称だけどな。先日逮捕されたのは偽物で自分こそが本物だと言うんだ。まあ、確かに声は似ているが、本当のところはわからないね。俺にとってはどっちでもいいことだが」
確かに店にしてみれば、雰囲気が盛り上がり売り上げさえ伸びれば、それで良いに決まっている。
「東京ローズ」と言うのは戦時中、日本政府が海外向けに行っていた英語放送の女性アナウンサーに付けられたあだ名で、セクシーな声と米兵たちの心をくすぐる話の内容に熱狂的なファンも多かった。
ヘンリーはビールをちびちび飲みながら、その女の話にしばらく耳を傾けた。年の頃は二十代半ばだろうか…アーモンドのような切れ長の眼とちょっと上を向いた小さな鼻。けっして美人ではないが男心をそそる魅力を備えていた。そして何と言っても「声」が良かった。ちょっと鼻にかかった艶やかな響き。訛りはほとんどない。目を閉じて聞いていると、もしや本物の東京ローズでは?と思えてくる。
「だから、東京ローズは私一人じゃないのよ。他にも何人かレギュラーがいたわけ。でも、お互いを知らないから何人いたかはわからないわ。もちろん私はレギュラーの一人よ。今、捕まっているアイバはレギュラーじゃない、多分スペアね。彼女は独占取材のお金に目がくらんで『自分が東京ローズだ』って名乗り出たのよ」
「で、その取材のお金っていくらだったんだい?」
赤ら顔で金髪の水兵がたずねるとローズは指を二本立てて言った。
「二千ドルって聞いたわ」
兵士たちの中から「ヒュー!」という感嘆の声が漏れた。二千ドルといえば家が一軒買えるほどの金額だ。
「よし!俺がその偽東京ローズと結婚するよ。獄中結婚でもかまわない」
浅黒い顔の海兵隊員が立ち上がって叫んだ。
「ヘイ、カルロス!おまえ、サンディエゴに女房がいるじゃないか」
「ガキも二人な!」
一同は爆笑し、カルロスは悔しそうにビールを飲み干した。それを見るとヘンリーはディックの方に向き直り、真面目な表情に戻って尋ねた。
「で、ディック、その後何かわかったか?」
一昨日の日曜日、ヘンリーは雪枝からの電話で「ブラックメール」が届いた件を聞き、恐らくG2の手先の仕業だろうと推測し、ディックに調査を依頼したのだった。
その時、雪枝はこう言っていた。
「この文章を書いたのはジミー・コサカに間違いないわ。だって、このShe’sというクセ、彼が話す時も同じだったから」
それは「Her(彼女の)と言うべき所を「She’s」という…文法的には間違いなのだが…彼のクセだった。
ディックは答えた。
「ああ、あのジミー・コサカと名乗る男は山王ホテルに寝泊まりしているようだな」
「何?山王ホテル?」
山王ホテルとは東京の溜池に昔からあるホテルで、戦後、米軍によって接収され、当時は米軍人や家族の宿舎になっていたホテルだ。ジミー・コサカが本当は日本人だとすれば立ち入り禁止なはずだが、やはりGHQにコネがあるのだろう。恐らく、その山王ホテルの部屋のどれかがスパイ活動の拠点のひとつになっているに違いない。あのブラックメールを作成するのに使われたタイプライターも、その部屋にあるかもしれない。しかし、そのような証拠をつかんだとしても、何ができるだろう。そこには厚い壁が立ちはだかっているのだ。
「クソ!G2の奴らめ…」
ヘンリーは悔しそうに唇を噛んだ。
「ヘンリー、悔しい気持ちはわかるが、もう少し待ってくれ。今、尾行を付けているから、何かこちらから揺すれるネタも挙がるかも知れない」
「そうか、わかった。ではもう少し待とう」
その時、突然、店の中が騒がしくなった。東京ローズがテーブルの上に飛び乗って踊り始めたのだ。誰かがジュークボックスでペリー・コモの「ア・ハバ・ハバ・ハバ」をかけた途端だった。ディックはすぐにバーから飛び出して行って怒鳴った。
「こら!ここはキャバレーじゃないぞ!さっさとテーブルから降りろ!」
兵士たちから不満の声が漏れたがディックの剣幕に誰も逆らう者はいなかった。「東京ローズ」はかなり酔っているのかフラフラとテーブルから降り、そのまま近くにいた水兵の腕の中に倒れ込んだ。
「ヒューヒュー!」
兵たちは口笛を鳴らして囃し立てた。
「今夜のローズはナッキーのもの!」
「ラッキー・ナッキー!」
ナッキーと呼ばれた赤毛の水兵は満面の笑みでビールの瓶を掲げて云った。
「我が部隊は、今夜東京に上陸します!」

ディックが電話で起こされたのは翌朝の六時前だった。受話器を取ると日本語訛りの英語で「本牧の警察」と名乗り、なるべく早く署まで来るようにとのことだった。その刑事は「確認して欲しいものがある」と言うだけで「詳しい話は署で」と言って電話を切った。警察と聞いてディックは色々なことが頭に浮かんだ。これまで「客同士のケンカの事情聴取」は何度かあったが、他に考えられるのは従業員が何か問題を起こしたか…チーフの森田か見習いの充か…。ディックは素早く身支度するとワインレッドのフォードに乗り込み、朝もやの中を磯子の自宅から本牧に向かって走った。警察の駐車場にはMPのジープが止まっており、ディックの胸を不安が過った。何か軍絡みで厄介なことが起こったのかも知れない。
ディックが取調室に通されると、日本人の刑事が二人と通訳の日系人らしい男が入ってきた。30代の目付きの鋭い方の刑事は杉田と名乗り、ビニール袋に入ったものをテーブルの上に置いた。
「これは…うちの店のマッチ!」
そのビニール袋に入っていたのは赤・白・緑の三色の真ん中に「PORT HALL」と言う赤いロゴの入ったマッチだった。
「これはあなたの店のマッチに間違いないですね」
通訳の日系人は尋ねた。
「はい、確かに私の店のマッチです」
「では、こちらに来ていただけますか?」
ディックは狭い廊下を抜けて隣の建物に案内された。
そこはモルグ(死体案置所)だった。
部屋の真ん中にはシーツをかけられた台があり泥だらけの足が見えていた。そしてシーツに覆われた顔の辺りにはうっすらと血が滲んでいるのがわかった。
「ではファーガソンさん、この女性を確認していただきます」
ディックは「Mr.ファーガソン」と言う本名で呼ばれ、ここが酒場ではなく警察であることを改めて感じた。そしてその死体が「女性である」という事に胸が締め付けられるような不安を感じていた。
刑事がシーツをめくった。
「東京ローズ!」
ディックは思わず大声で叫んだ。それは昨晩彼の店で楽しそうに踊っていた東京ローズの変わり果てた姿だった。頭には血の滲んだ包帯が巻かれ左顔面には大きな擦り傷。唇も切れ乾いた血の跡があった。
「東京ローズ?それがこの女性の名前ですか?本名はご存じないですか?」
「わかりません。本人が東京ローズと名乗っていただけです。しかし、いったい彼女の身に何が起こったんですか?」
「おそらくひき逃げです。発見された時はもう亡くなっていました。彼女のポケットからあなたの店のマッチが出て来たので連絡したのです。それでは、ファーガソンさん、あちらでこの女性についてもう少し詳しくお話を聞かせてください」
結局、ディックが解放されたのは三時間後だった。東京ローズについて話すことはあまりなかったが、当日店にいた客についていろいろと聴取を受けたのだった。
「これはただのひき逃げ事件じゃないぞ…ヘンリーにも知らせておこう」
ディックの頭の中の警報ベルが鳴り響いていた。




8)「GHQ」1946年11月11日(月)

午前九時十分前。雪枝は丸の内第一生命ビルの入り口に立っていた。ネイビーブルーのスーツに身を固め、髪も後ろでまとめ化粧もいつもよりかなり地味だった。先週、ヘンリーを通じて彼の上司:ケーディス大佐が面談を希望している旨を伝えられた。特に召喚状が来たわけではない。「一度、話がしたいといっている」と言うのが雪枝に伝えられた言葉だった。しかし、雪枝は内心覚悟していた。これは恐らく「尋問」に近いものになるだろうと。
約束の九時まであと九分だった。雪枝は意を決してビルの中に入った。するとそこは…高い吹き抜けの天井を持つ開放的なロビー。あちらこちらで英語が飛び交い、タイプライターの音や電話の音が入り混じり大理石の壁に反響し…それは別世界だった。
「ああ、アメリカの音、匂い!懐かしい…」
雪枝は思わず目を閉じ深呼吸してつぶやいた。正面の受付には日系人と思しき制服姿の若い男性がにこやかな笑顔で座っていた。雪枝がケーディス大佐の名前を出すと、急に改まった表情で、奥のエレベーターを指さし六階に昇るように告げた。受付の奥は広いオフィスになっており大勢の女性がタイプライターを叩いていた。司令部というよりも、どこかの新聞社のような佇まいだ。
六階に昇ると、打って変わって静かな空間が広がっていた。エレベーターホールにはヘンリーが待っていた。いや、今日はデュボア少佐と呼ぶ方が相応しい服装と態度だった。
「よく眠れましたか?」
デュボア少佐は雪枝を気遣うように尋ねた。
「よく寝たわ」
実はあまり寝られなかったのだが、雪枝は笑顔で応えた。
「ここです」
デュボア少佐がケーディス大佐の執務室のドアをノックすると中から「どうぞ」という声が聞こえた。意外に柔らかな声だ。
「どうぞ、お座りください。ミス上松」
ケーディス大佐が目の前のモスグリーンのクッションの椅子をすすめ、雪枝が座ると同時にデュボア少佐は「では大佐、失礼します!」と敬礼し部屋から出て行った。
部屋には雪枝とケーディス大佐が向かい合って座っていた。ミント・グリーンのカーテン。壁には毛筆で「民主主義」と書かれた掛け軸と竹刀が一本掛けられていた。そして雪枝を何よりも驚かせたのはケーディスの軍人らしからぬ風貌だった。軍服を脱げば、大学教授と言っても通用するようなインテリジェンスに溢れていた。
「私のことはチャーリーと呼んでください。私もYukiと呼ばせていただきます」
「はい…チャーリー大佐」
「大佐は要りませんよ。はははは」
雪枝もつられて笑った。
「コーヒーを頼みました。お好きですか?」
「はい、アメリカでは毎日飲んでおりました」
「そうでしたね。あなたはアメリカ育ち。英語も完璧だ」
「はい…」
秘書の女性がコーヒーを運んできた。
「クリームと砂糖は?」
「いえ、ブラックで…」
「Yuki、煙草を吸ってもかまいませんよ。ラッキーストライクで良ければどうぞ」
大佐が自分の煙草を勧めると雪枝はそれを制し自分のバッグからマールボロを取り出して咥えた。大佐がジッポーのライターでその煙草に火を点けると、雪枝は緊張がほぐれたのか白い煙を天井に向かって吐き出した。
「では、Yuki、まずこれを見てください」
大佐は一枚の写真を取り出した。
雪枝はそれを見ると思わず大きな声をあげた。
「Oh My…あいつら!」
それは二カ月ほど前、日本郵船ビルで行われたパーティーの写真だった。雪枝とヘンリーが楽しそうに踊っている姿。
「Yuki、心配することはありません。これは我々の報道部が撮った写真です。ブラックメールではありませんからね。実に良い写真だ。報道部もこれを軍の新聞に載せようとしたんです。しかし、私が止めた。なぜだかわかりますか?」
雪枝は言葉に詰まった。大佐はコーヒーをすすると話を続けた。
「Yuki、あなたが一般の女性なら全く問題ない写真です。むしろ、米軍と日本人の親睦の象徴としてピッタリの写真だ。しかし、あなたは違う。あなたは貴族の娘だ。しかも天皇家ともつながりが深い。アメリカ人は貴族に対して並々ならぬ好奇心を持っているんですよ。アメリカで育ったあなたならわかるはずだ」
確かに、アメリカにいた頃、雪枝はアメリカ人のクラスメートや教師達から特別な目で見られていた。一般のアメリカ人から見れば千年以上の血筋が遡れること自体が奇跡なのだ。そしてその大本が天皇家に連なっていればなおさらだった。
大佐は立ち上がって煙草に火を点け窓から外を眺めた。そこからは皇居が一望のもとに見渡せた。
「我々の天皇家に対する気持ちは複雑です。アメリカ国民の中には天皇を処刑すべしと叫んでいる者も少なくない。もちろん、マッカーサー元帥以下我々GHQの方針は皇室存続で一致していますから問題ない。しかし、これは感情論ではない。純粋に政治的な意図です。Yuki、あなたは賢いからわかるはずだ」
雪枝はヘンリーから聞いて知っていた。アメリカ政府が天皇家を残した最も大きな理由は「日本の共産化」を防ぐためだと。
「Yuki、我々はあなたのプライバシーを侵害するつもりは全くありません。ただ、もう少し慎重に振る舞うことをお願いしたいのです。ご存知のように、我々の中にも権力闘争があります。あなたをそのような争いに巻き込みたくない。これが私たちの願いです。わかっていただけますか?」
雪枝は黙って頷いた。確かにこのところ少し舞い上がっていたかも知れない。嫌な戦争が終わりヘンリーに出会い、失われていた青春時代を取り戻そうとするかのように遊び回った…その振る舞いに問題がなかったとは言えない。世の中の戦争の傷はまだ癒えていないのだ。
雪枝は大佐に見送られてエレベーターに乗った。雪枝がこの建物に足を踏み入れてから一時間近く経っていた。大佐は最後にこう言った。「時々面談に来て欲しい」と。去り際に「交通費」として渡された白い封筒の中には二十ドル札が一枚入っていた。思いがけない大金だった。
「こんにちは。ミスター・アンドリュー・ジャクソン…」
雪枝はつぶやいた。そしてエレベーターを降りた後もしばらくロビーに佇みアメリカの空気に浸っていた。



9)「日曜日」1946年11月17日(日)

その日曜日の朝、ディックが起きたのは11時過ぎだった。シャワーを浴びコーヒーを一杯飲むと、元町まで食料品の買い出しに出かけ、遅めの昼食をとるために自宅に戻ったのは午後二時近くだった。元町で買って来たイタリア製のスパゲティと缶詰のミートボールの昼食を済ませ、食後のコーヒーを飲みながらラジオを聞いていると電話が鳴った。聞き覚えのある日本語訛りの英語。本牧警察の杉田という刑事だった。先日東京ローズの件で調書を取った担当の刑事だ。
「ミスター・ファーガソン、できるだけ早く署まで来てください。森田良蔵を逮捕しました。あなたの店の従業員ですよね?彼は弁護士としてあなたを指名しています」
「え?刑事さん、逮捕って?いったい森田が何をしたんです?」
「殺人の容疑者です。先ほど森田本人が自首して来たのです」
「殺人!」
ディックは思わず大声を出した。
「いったい誰を殺したんですか?」
杉田刑事は「詳しい話は署で」と言い電話を切った。
何ということだろう。今日は店の営業は休みだが、森田は仕込みのために店に行っていたはずだ。「ピザのドウの発酵具合をチェックしなければ」と言っていた。
「殺人だって?」
車を走らせながらディックは何度もつぶやいた。何が起きたのか全く見当もつかなかった。
本牧署に着くと駐車場にはMPのジープと黒の公用車が一台とまっていた。
「軍が絡んでいるのか…」
ディックは嫌な予感を感じて首をすくめた。
担当刑事の杉田はディックを見ると手招きし小さな応接室に案内した。
「で、杉田刑事、森田は誰を殺したんです?」
「Mr.ファーガソン、これはまだ極秘にしていただきたいのだが、森田はジミー・コサカという日系アメリカ人を殺したと言っています。ジミー・コサカはGHQの通訳をしていた人物ですが、あなたは彼をご存知ですか?」
そういって杉田刑事はパスポートを見せた。それはアメリカ政府発行のパスポートで写真は間違いなくジミー・コサカだった。1911年1月5日ホノルル生まれとなっているが、もちろんこれは偽造パスポートだろう。
「そうですね。何度か店に来ていたかも知れませんが、あまり印象に残っていませんね」
ディックはこの杉田という刑事がどこまで知っているのかわからないので、当たり障りのない返事をした。
その時、ドアが開き初老の警察官が入って来た。
「失礼します。ファーガソン弁護士に呼ばれたという女性が見えています。上松雪枝さんという方です」
ディックが電話をして雪枝を呼んだのだった。日曜日で弁護士事務所のスタッフがつかまらず、仕方なく雪枝に通訳を頼んだのだ。ディックの拙い日本語と森田の英語力では、とてもマトモな会話にはならない。バーの中ならそれでも良いが、これは「殺人事件」なのだ。
雪枝は急に呼び出されたので、あまり化粧もできなかったのだろう。濃いサングラスをかけ頭には青いスカーフを巻いていた。それでも、彼女の美しさはこの殺伐とした場所では一輪の百合のようだった。
「ディック!いったい何事?今日はゴルフの練習に行こうと思っていたのに…」
雪枝は不満そうな声を出した。
「Yuki、実は森田が…」
ディックが小声で説明すると雪枝は大きな声を出した。
「うそ!チーフが?あのチーフが人を殺すなんて…」
「きっと何か訳があるに違いない。Yuki、今日は僕は弁護士として来ているんだ。そして君に頼みたいのは通訳だ。できるだけ感情は抑えて冷静に振る舞ってくれ。ヘンリーには後で僕から事情を説明するから安心してくれ」
二人が廊下に出ると杉田刑事の案内で奥の部屋に通された。
「ここで容疑者と接見していただきます。何かありましたら部屋の外にこの谷口がおりますので声をかけてください」
谷口と呼ばれた初老の警官が背筋を伸ばし敬礼した。ディックと雪枝は粗末なテーブルを前に座り森田が連れて来られるのを待っていた。
「チーフに何て声をかければ良いだろう…」
雪枝は息苦しさを感じ額の汗を拭った。そして、その隣には祈るようなポーズで目を閉じているディックが座っていた。



10)「殺意」1946年11月17日(日)

 森田が二人の警官に両腕をつかまれ部屋に連れて来られたのは、それから十分後だった。椅子に座るなり森田は机に頭を擦り付けるようにして詫びた。
「ディックさん、雪枝さん、申し訳ない…」
身体の底から絞り出すような声だった。
「チーフ、ダイジョウブ!ワタシ、ベンゴシウケマス」
ディックが日本語で言ったのを聞き森田は泣き出した。
「ディックさん、すまない。お店にも迷惑かけて」
「チーフ…いえ、森田さん、もう謝らなくていいから…とにかくお話を聞かせてください」
雪枝が優しく言うと、森田は天井を見上げながら時折目を閉じひとつひとつ情景を思い出すように話し始めた。

森田がポートホールに行ったのは朝の十時頃だった。日曜日は定休日だが、ピザの生地の発酵具合を見に行くのは森田の役目だった。ついでにソース類を仕込んだり、色々と翌週の準備をすることも多かった。森田がキッチンで仕込みをしていると表のドアの開く音がした。見ると、男が一人店内に立っていた。暗くて誰だかわからないので「今日は休みですよ」と声をかけた。
「俺だよ、俺、ジミーだよ」
その男はジミー・コサカだった。紺色のキャップを目深にかぶりサングラスをかけている。
「森田、久しぶりだな。忘れちゃいないよな。吉田だよ。上海の」
森田は何と答えたら良いかわからず黙っていた。
ジミー・コサカこと吉田栄吉は森田の沈黙にかまわず話し続けた。
「まさかお前が生きているとは思わなかったよ。てっきりどっか南の島でくたばったと思っていた。まあ、ここでこうしてまた会えたのも何かの縁だ。知っての通り俺は今、進駐軍の仕事をしている。森田、お前にもちょっと手伝ってもらいたくてこうして出かけて来たんだ」
「手伝い?」
「ああ、そうだ。俺は表向きは通訳だが、実は情報収集が役目だ」
「スパイですか?」
「スパイって…お前、人聞きの悪い言い方だな。俺たちの役目は日本を共産主義者から守ることだ。お前も共産主義者がどれほど危険か知っているだろう?」
「いや、わかりません。私はもう国に騙されるのはごめんです。日本だのアメリカだの…」
「まあ、細かい話はどうでもいい。お前に手伝って欲しいのはここに来る客の情報を集めることだ。たとえばこの男とか…」
吉田は一枚の写真を取り出した。それはヘンリー・デュボア少佐だった。
「あっ、ヘンリーさん…」
「ほお!ちゃんと見分けられるじゃないか。そうやって顔と名前を覚えたら、そいつがいつ誰と来たかを書き留めて俺に知らせてくれればいいんだ。簡単だろ?」
「お断りします。吉田さん、私は今はコックです。料理以外のことは考えたくない。もう兵隊じゃありませんし、あなたの命令を聞く義理もない。仕込みがあるんで失礼します。どうぞお帰り下さい」
森田はキッパリと告げるとキッチンに戻った。すると吉田はバーに入り込みキッチンまで追いかけて来た。
「おい、森田、俺に逆らう気か?俺には進駐軍がついているんだぞ。消そうと思えば誰だって簡単に消せるんだ。東京ローズみたいになりたいか?」
「え?東京ローズ?殺したのはあんたか?」
「いや、俺が殺したとは言ってない。おとなしく言う事を聞いた方が身の為だと言ってるんだ。もちろんただ働きさせるつもりはない。お前はここでいくらもらってるんだ?どうせ大したことはないだろう。もっといい暮らしがしたくはないか?」
「吉田さん、私は自分を信じている人を裏切ることはできません。ディックさんに隠れてそんなことをしたくない。私は生まれ変わったんです」
「あんな出来損ないの弁護士なんか怖くないね。大体お前は生まれ変わってなんかいない。昔も今も負け犬だ。お前が上海で何をしていたか知ってるぞ。ずいぶんシナ人の女に入れあげていたみたいじゃないか。あれが初めての女だったんだろ?」
「うっ、なぜそれを」
「お前の好きだったあの女は、俺たちの店で働いていたんだよ。赛琳娜(セリーネ)…上玉だったなぁ。バカなことをしなければ生きて終戦を迎えられたものを…もっともヤクで頭はいかれていたかも知れないが…」
「生きて終戦?彼女は死んだのか?」
「なんだ?何も知らなかったのか?俺がこの手であの世に送ってやったんだよ。あいつの兄貴と従兄弟と一緒にな」
「な、なに?な!なぜ殺した!」
森田は頭に血が上り言葉がもつれた。
「あの女の家族が借金を返すから家に帰してくれと言いだしてな。兄貴と従兄弟が金を持って店までやって来たから、その十倍吹っかけてやったんだよ。確かに最初に貸したのはその金額だったが、あの女は稼ぎ頭だ。商品価値が上がったんだよ。株と一緒さ。それが資本主義っていうもんだろ。だいたいチャンコロのくせに人権だ何だと生意気抜かすから思い知らせてやったんだ」
玉葱を刻んでいた森田の手が止まった。そして、向き直るといきなり包丁で吉田の下腹を突き刺した。
「うわっ!何をする…うう」
吉田は腹を押さえてキッチンの裏口から逃げようとした。森田はその背中にもう一度包丁を突き立て足で尻を蹴飛ばした。よろけた吉田の身体は空瓶の入った木箱にぶつかりコンクリートの地面に仰向けに倒れた。バーボンやジンの空瓶がガシャンガシャンと大きな音を立てて地面に転がり、吉田の白いシャツがみるみる血に染まっていく。
「お前、こ、こんなことをして…ただで済むと…」
森田は何も言わず立って吉田をジッと見ていた。血が地面に流れ出しコンクリートを赤く染めた。吉田はしばらく呻きながら口をパクパクさせていたが、しだいに動かなくなった。
森田は包丁を手にしたままゆっくりとキッチンに戻った。そして血に汚れた包丁と手を丁寧に洗った。恐怖感は全くなかった。むしろ山羊や鶏をさばいた後のような…ひと仕事終えた時のような気分だった。そして心は…軽やかだった。人を殺したというよりも「セリーネの仇を討った」という気持ちの方が強かったのだ。ピストルを手にした吉田を見たあの上海の夜、あれはセリーネ達を殺した直後だったのだ。その事件については「吉田がシナ人の男女三人を殺した」としか聞いていなかった。まさかセリーネ達を殺したとは…。そして、事件の後すぐに満州に転属命令が出たのだ。満州に発つ前日にセリーネに別れを告げようと花を持って会いに行ったが、受付の男に「彼女は故郷に帰った」と断られた…あの時は、もう彼女は殺された後だったのだ。
森田は血の付いたコックコートを脱ぎバッグに仕舞うと、私服に着替え顔を洗い髪を整えた。
その時、いきなり店の表のドアの開く音がした。
「ジミー、いるか?おい!どこだ?」
日本語で呼ぶ声がした。
「まずい…」
森田はすぐに裏口から出ると走って路地を抜け裏通りに出た。そしてそのまま本牧の警察署に向かったのだ。

話を聞き終わるとディックは眉間に手を当てしばらく黙っていた。そしてゆっくりと話し始めた。
「チーフ、一番のポイントは君が殺した人間が『誰か』という事だ」
「え?何を言ってるの?ディック、それは吉田に決まってるでしょ?ジミー・コサカなんて言う人物は本当は存在しないのよ」
雪枝は目を丸くして云った。
「いや、そうじゃない。アメリカ市民としてのジミー・コサカは確かに存在しているんだ。パスポートもある。むしろ存在していないのは吉田の方だ。だから、チーフ、君が殺したのは吉田ではなくジミー・コサカだ。これを自分の胸に刻み込むんだ。そして、上海で起こった事件のことも警察には一切話さないように。吉田栄吉なんていう男はこの世に存在していないんだ」
雪枝がここまでを森田に伝えると、森田は困ったような声を出した。
「じゃあディックさん、あいつ…その…ジミーを殺した理由は?何と言えばいいんですか?」
「正当防衛だ。先に手を出したのはジミー・コサカだと言い張れ。スパイ行為を強要され断ったら口論になり殴りかかって来たと言うんだ」
「それで通りますかね?」
「大丈夫だ。さっきの話をそのまますればいい。スパイになることを強要されたのは事実だし問題ない。ただ、刺した動機の部分だけを正当防衛に変えるんだ。もちろん、上海やセリーネの話をしては絶対ダメだ」
ディックがテーブルを叩いてきっぱり言うと森田は黙って頷いた。

森田との接見が終了したのは二時間後だった。
「チーフ、大丈夫かしらね」
「Yuki、チーフは元軍人だ。幾多の修羅場を生き抜いて来た男だ。精神力は強いはずだ。刑事の取り調べくらいで音をあげるはずはないさ」
もう外は暗くなり始めていた。
「ディック、お店はどうするの?」
「一応後で見に行くが、事件現場だからまだ中に入れないだろう。しばらく休業するしかないな。チーフもいないし」
「残念ね。いいお店だったのに」
「うん…仕方がない。それより、Yuki、今日は本当に助かった。ありがとう。お礼に食事をご馳走させてくれないか?今後の作戦会議も兼ねて」
「え?本当に?私、久しぶりにステーキが食べたいわ。分厚いやつ」
「よし!まかしとけ。俺の車の後について来てくれ」
「アイアイサー!」
雪枝は背筋をピッと伸ばして敬礼した。
「じゃあ駐車場で待っていてくれ。ちょっと電話をして来る」
ディックは署内のロビーにある公衆電話を指差した。



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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016-11-16 12:37
y.hirukawa  長老   投稿数: 947 オンライン
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