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平和へのメッセージ  宗像 善樹

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2017-2-12 18:19
m-hanami  モデレータ   投稿数: 373
 平和へのメッセージ
              宗像善樹

 私には、先の大戦がもたらした悲劇について、少年時代の大切な思い出があります。
 私が小学生だった昭和二十年中頃の話です。
 私が住んでいた浦和市の家の近くの長屋に「たかお君」という名前の一歳年下の遊び友だちが住んでいました。
たかお君の家族構成は、胸の病気を患って布団に臥しているお母さんと、たかお君が「おじさん」と呼んでいた四十歳くらいの男の人と、「たかお君」の三人でした。
男の人は、たかお君のことを「ぼうや、ぼうや」と呼んでいました。
 私は『不思議な家族だな』と内心思いながら、いつしか、たかお君を「ぼうや、ぼうや」と呼んで、一緒に遊ぶようになりました。他の遊び仲間も、私に習って、「ぼうや、ぼうや」と呼ぶようになりました。
ただ、私の両親を含め近所に住む大人たちは、常に「たかおちゃん、たかおちゃん」と呼んでいました。
 「おじさん」には左の腕がありませんでした。
そして、いつも足元が見えないくらい裾の長い褞袍(どてら)を着ていました。めったに家の外に出ず、部屋の奥に座って、長屋の前で遊ぶ私たちを眺めていました。まったく、働きにも行きません。
私は子供心に、『どうやってご飯を食べているのだろう』と思いました。
 そういう私の疑問とは関係なく、たかお君は明るく、素直な子供でした。回りの大人たちも、たかお君を大切に見守っていました。
 私を含め子供たちは、それぞれの母親から、
「たかおちゃんが家に帰るまでは、一緒に遊んであげなさい」
「たかおちゃんと一緒にいてあげなさい」
と言いつけられました。
私は、事情が分からないまま、親の言いつけ通りにしました。辺りが暗くなってから家に帰っても、親の小言はありませんでした。謎めいた親の態度でした。

 私が大学生になってから、母親が謎を明かしてくれました。私がこの話を聞いた時には、たかお君は長屋から引っ越して、すでに浦和からいなくなっていました。
「たかおちゃんの本当のお父さんは、昭和二十年に、福岡県にあった太刀洗飛行場でアメリカ軍の空襲に遭って亡くなった。
おじさんという人は、亡くなったお父さんの親しい戦友で、空襲で左腕を失い、爆弾の破片で身体中に傷を負った。
たかおちゃんのお父さんが息を引き取るとき、戦友に『身寄りのない妻と子供が心残りだ』と訴えた。
戦友は『安心しろ。後は、俺にまかせろ』と答えた。その戦友は、たかお君のお父さんの一族が、東京大
空襲で全員焼死したことを知っていた。
その戦友の実家は長野県にあり、戦友は裕福な農家の次男坊だった。
戦争が終わったとき、戦友は実家に戻らず、遺骨を抱いて、埼玉県浦和市の亡くなった戦友の家を訪れた。
そして、そのまま、戦友の奥さんと子供のたかお君の生活を守るために、一緒に暮らした。生活は、長野の実家が経済的な支援した。
おじさんは、亡くなった戦友の気持ちを推し量って、死んだ戦友の子供を「たかお」と呼ばずに、「ぼうや、ぼうや」と呼んだ。そして、自分の身体の状態を世間に見せたくないから、いつも褞袍を着て暮らした」

 この話を聞かされたとき、私の脳裏に、蝉しぐれの騒がしい鳴き声とともに、次のような情景が浮かび上がってきました。
 それは、私が高校2年の夏休みの時でした。
たかお君のお母さんが胸の病で亡くなった葬式が終わった数週間後、突然、おじさんとたかお君が、我が家に挨拶にきました。
おじさんが、戦友だった『たかお君のお父さんの遺骨箱』を抱き、たかお君が、『お母さんの遺骨箱』を抱いていました。
おじさんが両親に向かって言いました。
「これから、ぼうやと、ぼうやの両親と一緒に、長野の私の実家に帰ります。ご近所の皆さんが、長い間、この子を見守り、面倒をみてくださいました。本当にありがとうございました」
 話を聞きつけた近所の人たちがぼうやの家の前に集まり、涙をぬぐい、揃って四人を見送りました。

 おじさんが去るとき、そっと私に小さな紙袋を渡してくれました。
その日の夜、自分の部屋で袋を開けました。
 中には、HBのトンボ鉛筆二本と手紙が入っていました。手紙に書いてありました。
「よしきちゃん。いつもたかおと遊んでくれて本当にありがとう。たかおの父より」
おじさんの代筆による、たかお君のお父さんからのお礼文でした。
そして次に、おじさんの名前で、次の一文が書いてありました。
「戦争は、二度としてはいけない」

 このように私は、少年期に、日常の市民生活の中で、戦争の生々しい傷跡を見て育ちました。あの日、おじさんが私に書き残した『戦争は、二度としてはいけない』という言葉を胸に刻んで、今日まで生きてきました。
私は、おじさんが残した大切な言葉を、私たちの次の世代にしっかりと伝えていかなければならないと思っています。

 古希を迎えた私は、自分の机の上のトンボ鉛筆を見るたびに、あの時、両親や近所の人たちと一緒に、ぼうやとおじさん、たかお君の両親の4人を見送った光景がセピアカラーのように目の前に浮かんできます。
 私の両親も、あの頃の近所の大人たちも、とうに、みんな逝きました。 
 小学校でたかお君と同じクラスだった、私の年子の弟も、先日、逝きました。 合掌
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