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先生方の作品集

乱 丁 本                       

作:山田篤朗                                          

「乱丁 書物を製本したり綴じを改めようとした際に、不注意からその順序を誤った結果、書物の内容が乱れた状態にあること」
       (『日本古書籍書誌学辞典』岩波書店より) 

 電車が大きく左右に揺れた。吊革に軽く掴まっていた高岡啓介は、そのとき片手に文庫本を持って読んでいた。
ふと目を上げると、空は濁っていた。ちょうど今読み始めたばかりの短編の季節と同じ梅雨間近の空だった。
今、読んでいる文庫本は、北野英子という小説家の、今月新刊として刊行された『永遠の落丁』と言う短編集だった。
北野英子の名前と作品を知ったのは、約半年前の電車内の吊り広告だった。短編集が老舗の大手出版社からハードカバーとして刊行されてからである。その作品集は『栞』と言う題名で、広告には「中年の大学図書館員の静謐な恋」とあり、その言葉に惹かれた。
とは言っても、彼はまだ中年と呼ぶような歳ではなかったし、また静謐な恋をしているわけでもなかった。単に自分と同じ「大学図書館員」という小説の主人公の職業に興味を抱いたのだ。

 現在では北野英子の作品は、発表する毎に必ず書評に取り上げられ、文芸誌では、作品と人物を巡って小特集まで組まれるほどの注目する存在になっている。その小特集には著者自身が作成した略年譜が附記されており、京都にある現役の大学付属図書館員であることが明らかになっている。
しかし『栞』には彼女の略歴は記されて居らず、啓介と同じ職業であるとは知らなかった。だから、その小説家が自分と同じ図書館員をどのように見て、描いているのか知りたかった。この無名の作家が、どれだけの筆力があるのか無ければ笑ってやろうと、ちらりと思った。
優れていれば、十一月締め切りの大学新聞に、掲載予定の一二〇〇字の書評に書こうと考えていた。前々回はイタリアの小説家イタロ・カルヴイーノの『冬の夜ひとりの旅人が』(ちくま文庫)であり、前回は、柴田宵曲、森銑三の『書物』(岩波文庫)だった。啓介は一端の書評家のつもりでいた。

 早速、啓介は乗換駅の新宿にある大手の書店の本棚に、一冊だけ入荷していたハードカバーを手に取った。
表紙の右上に「栞」の一字と、右下に作者名が柔らかく小さく墨書され、地は和紙のようなクリーム色の瀟洒な味わいがあった。
この新刊を購入した啓介は、さっそく座れなかったものの混んでいない各駅停車の電車に乗って読み始めた。小田急線で多摩川を越えた直ぐの登戸駅が、啓介のマンションの最寄り駅だが、降りた後、駅前にある喫茶店へ向かい、コーヒーを飲みながら残りの部分を一気に読み終えてしまった。
表題の短編は、吊り広告にもあったように、中年男の淡い恋と、その終わりが描かれていた。
 だが、それよりも図書館独特の静寂さ、ゆっくりとした時間の流れ、本の匂い、そして仕事内容の的確な記述が描かれていた。啓介にとって感情移入しやすいものだった。ほかの短編も丁寧に仕上げられた作品だった。
そして何よりも、この短編集のあとがきの「殺伐とした図書館の外よりも、館内にある蔵書の方が、私の心のバランスを保ち、慰めてくれるのである。それは現実逃避という言葉では言い表せないものがある。もっと豊かな場所である。」という言葉は、全く同感するものだった。読了後、この作品を書評することに決め、他の作品も読まなくてはと思った。

 奥附には「北野英子」がペンネームであり、ほかに京都の聞いたことのない出版社から三冊刊行されていることが示されていた。それぞれ『表紙』『断簡』『書評』と言う、いずれも書物の世界から採った名前だった。
翌日、啓介は自分が勤務する図書館に着くなり、「北野英子」の作品をパソコンで検索すると、既に彼女の『表紙』『書評』が収まっていることを知った。
これまで、何で、今まで気がつかなかったか、少し悔やんだ。その後悔は最初の読者になれなかったことからだった。

 すぐに図書館に所蔵されている二冊を仕事の合間に読んだ。 
『書評』は五つの作品が収まった連作短編集である。ある本の書評を読んだ女が、町はずれにある大きな古い図書館で、その作品を捜索していくうちに、古今東西の文学上の主人公たちに出会い、空想の会話を愉しむという、ボルヘス風の幻想的な小説だった。
例えば「オフェーリア」という題の冒頭。
「図書館の北側の奥には古びた木製の本棚がある。明治期の翻訳された哲学書が並んでいる。それらすべての装丁は壊れかかり、触ると崩れそうである。その本棚の横に、小さな鏡がある。その由来は誰も知らない。(中略)夕方、私は、哲学の教授から頼まれて、ニーチェ哲学の翻訳本を取りに行った。(中略)その鏡をじっと見つめていると、鏡は水のように波立ち、そのなかから髪の長い女が現れた」。そして主人公は現れた女との哲学的対話が始まる。

 もう一つの『表紙』と言う作品は、嫉妬を主題にした連作短編集だった。どれも慎重に言葉を選んでいる作品で、世間の噂にならなかったのが不思議なくらいだった。最近の洪水ともいえる出版数に埋没した作品だった。
啓介は自分の好みの作品は必ず買つて手元に置くようにしていた。
早速、書店勤務をしている、現在同棲中の女に頼んで、『表紙』『断簡』『書評』を京都の出版社から取り寄せてもらうよう頼んだ。
そのうち『書評』『断簡』が届いたが、いずれも初版本だった。つまり世間では知られていない作家と言うことである。
ただし『表紙』は在庫がなかった。『表紙』は大学近くにある古書店に立ち寄ったが、やはり無かった。その古書店の小太りの主人に探してほしいと頼んでおいたが、今のところ返事はない。
『断簡』は主人公が襖の下張りに古い日記の断片を見つけ、それが明治期のある女の恋が綴られていると言う内容で、これが「北野英子」のデビュー作だった。ところどころに明治の新聞の断片が挿入され、なかなか読ませた。
ところで、今、読んでいる『永遠の落丁』は、北野英子五冊目の、初の文庫オリジナル作品集だった。六つの短編が収まっていた。各短編は京都の同人誌に発表されたという。

 表題の作品は、恋人の死で、ある約束が永遠に果たせなくなってしまった男の話だった。少々センチメンタルだった。啓介はどうしても解説を先に読んでしまうのだが、次の「誤植」は文庫の巻末にある解説で、いつもは辛口で有名な書評家が「文学史に残る短編だ」と称賛していた。
「もうすぐ梅雨になる。この時期になると彼女は、数年前に起きたあることを思い出し憂鬱になる。何故あの男と関わってしまったのだろうかと。しかし憂鬱になるだけで後悔はしていない。何故ならば、私が本気で恋をした男だからだ。」という書き出しを読み始めたとき、また電車が大きく揺れた。
そのとき、隣に並んでスポーツ紙を読んでいた三十代のサラリーマンの腕が、啓介の手の甲にぶつかった。
するりと書店でつけてくれたブックカバーだけが残り、文庫は前に坐る若い女性の黒いジーンズの膝の上に覆い被さるように落ちた。
「あ、すみません」
啓介は謝った。
「北野さんのだ」
女が呟き、焦点が少しぶれているような濡れたような眼で啓介を見上げた。
顎の線が幼かった。女の口調で、北野英子の作品を読んだことがあって、しかも好きなのだろうと思った。
同時に、その特徴のある眼を、啓介は見覚えがあったが、思い出せなかった。しかし、潤んだ眼は、啓介を動揺させた。女は大事そうに、膝の上に載った文庫本を啓介に手渡した。
 

高岡啓介のノートから。
北野英子『永遠の落丁』あとがき
「小説で、女が男と識り合うといった偶然を描くことは難しい。わざとらしくなってしまう。しかし現実には、よくあることなのだ。そしてそれが人生を豊かにさせてくれる。そうでなければ、現実は単調で、殺伐としたものでしかない。(中略)そういう偶然は、直線的である「生」の流れを変えるだけの力があることは間違いない。この偶然の大いなる力に巻き込まれた男女の姿を描いてみたい」。
(啓介・コメント 偶然は、人生で、そんなには起きないだろう。小説の中の偶然が面白いのは、現実ではほとんど起きないからだ。)

 午前中の図書館には、学生たちの姿はほとんどなかった。 
啓介は図書館のカウンターのなかで、パソコンの前に坐り、学生や教授たち大学関係者の希望する図書リストのチェックをしていた。  
新学期で希望購入図書は相当ある。一冊一冊を既に図書館にあるかどうかをパソコンで検索後、なければリストに加えて、大学内にある図書館協議会に申請するのである。その後、協議会によって予算から図書購入が決まる。以前は、このチェックは二人のアルバイトに任せていたのだが、人員削減で、現在は職員がしている。
 しかし館員の仕事はそれだけではない。
図書館本来の仕事のほかに心配事がある。最近は置き引きが多くなったのだ。特に4、5月は、新入生がどっと増え、本当に新入生なのか判断できない。絶えず館員は、カウンターから不審人物に目を光らせているのである。
先週も、十万円の現金が入った財布の盗難報告があった。学生が何でそんな大金を抱えているのか皆で首をひねった。そのことで、昨日の朝、業務開始前に図書館協議会の理事から口頭で気をつけるようにという訓示があった。白髪頭の理事は図書館員が悪いような言い方をした。
 人影が啓介の視野に入った。啓介は反射的に立ち上がった。そこには一時間ほど前に、電車の中で啓介が文庫本を膝の上に落とした女が立っていた。
ここの学生だったのか。
彼女は、小さな茶色の革製ポシェットから「フランス文学科四年生 石川史子」と印刷された、写真入りの図書貸し出しカードを取り出した。
それとともに、先週入荷したばかりの「北野英子の世界」というガイドブックが、カウンターの上に置かれた。同時に柑橘系のむせるような香りが啓介の鼻を刺激した。
「これ借りたいのですが。お願いします」
少々、甘えた舌足らずな言い方だった。啓介は去年暮に、この石川史子が須賀敦子の『イタリアの詩人たち』を借り出したことを思い出した。その後も何回か図書館で見かけたことがある。
そういえば、北野英子の作風は、須賀の柔らかい感じに近いものがあるな。須賀を読み直してみるか。
啓介は黙ってカードに判を押した。来年からは、機器が導入され、カードシステムとなり、ハンコも必要なくなる。

 石川史子が声を掛けた。いきなり本題から入った。
「私、北野さんので、好きなのは、「栞」のなかの、「古書市」です」
「古書店の主人の回想でしたっけ」
「違います、それは、「探す」、です。デパートの古書市で知り合った男と女の恋愛話です、「誤植」よりもいいです」
史子の言い方は、勘違いの指摘にしては、きつく感じた。しかし、好きな作家に惚れ込んでいる人間に、えてして多い。この女も、そういうタイプだろうか。
北野英子の「古書市」の「その場所に行かなければ、ふたりは他人同士だったはずだ。」という冒頭を思い出した。「古書市」は、作りすぎの感があり、余り好きではなかった。北野の「偶然」を描く意気込みは判るのだが、そう言う書き方をすると、どうしてもあとの展開が判ってしまうだろう。
 史子は、貸し出しの手続きを終えると、すぐにカウンターから去っていった。
しかし、それから、毎日のように史子は図書館にやってきて、啓介とカウンター越しから会話するようになった。少しべとつくような話し方も慣れれば気にならなかった。話し込んで、彼女は講義をすっぽかしたこともあった。啓介は、この女は少し自分に気があるのかなと思った。彼女は自分のことについて、一切語らなかった。しかし別に啓介は今「女」を強く欲して居なかったから、それ以上の発展はないだろうと思った。二人の会話は現在話題になっている小説のことや、史子が好きな小説や詩の話題ばかりだった。史子が読んでいる本は、啓介も読んでいた。
史子は本を借りた後、図書館の入り口で、啓介よりも十僂曚氷發っ砲搬圓噌腓錣擦靴討い襪里髻何度も見かけた。男は、しかし、一度も館内で見かけたことはなかった。
突然、五月の連休前に、借りた本を返してきた史子の香水が、柑橘系から、むせるような桃の熟れた香りとなった。その変身ぶりに、啓介は「脱皮した」と何度も呟いた。

 啓介が仕事から自分のマンションに戻ったとき、織田春恵は、まだ会社から戻っていなかった。春恵とは、大学三年生の時に知り合って以来、五年の関係になる。この2DKをふたりで借りてからは、二年が経つ。
織田春恵は、大学卒業後に東京の中堅書店に就職した。当時は就職の氷河期と呼ばれ、特に女子大生の雇用は難しかった。春恵は実家に戻りたくなく東京に残りたい一心で、様々な職種の就職試験を受け続け、しかしことごとく落ちた。最後に春恵は書店の最終試験に残った。
だが今まで書店に興味の無かった春恵は、慌てて読書家の啓介に最新の読書界の動向などの集中講義を頼んだ。
啓介は、既に大学付属図書館に内定して、卒論もほぼ出来上がっていた。卒論は「デイヴィット・ロッジの文学と評論の関係」だった。

 それまで、啓介は、春恵の人生に必ずしも大きな影を落としていない男友達のひとりだった。性的な関係はあったものの、いつ別れてもおかしくない不安定さがあった。
啓介は二つ返事で引き受けた。利用されてもいいと思った。理由は言うまでもなく春恵が好きだったからである。それ以外に何も理由もない。
啓介は面接までの一週間の夜二時間を、講義に当てた。春恵は真剣に啓介の話を聞き質問しノートに取った。模範的な優秀な生徒だった。
その結果、春恵は入社した。その入社式のあとのミーティングで、社員の前で最近の出版流通や読書界を実に理解している新人として紹介されたらしい。入社式から戻ってきた春恵の歓びようは啓介の歓びだった。
そして研修後に、普通新人は関東地方にある支店の営業に回される。しかし春恵は新人としては異例の本店の書籍部門に配置された。そのため引き続き春恵は啓介にレクチャーして欲しいと頼んだ。啓介は喜んで引き受けた。
今では啓介の手元に春恵のために講義した大学ノートは八冊にもなる。そしてちょうど春恵と同棲を始めてから、年二回の大学新聞に書評を載せて貰うようになったが、このノートが土台である。レクチャー後に春恵は必ず啓介を求めた。
「講義料の代わりじゃない、あなたが好きだから」
それが春恵の言い訳だった。
最近の春恵は帰りが遅かった。去年の春に春恵の勤務する書店の新店舗ができ、その副店長兼単行本担当になった。帰ってこないときもあった。会社近くのビジネスホテルに泊まるという。しかし、或る夜中に帰ってきた春恵から日本酒の熟した匂いがした。初めてだった。しかも春恵は、啓介の顔を見ずに風呂場へと直行した。部屋に残った酒の匂いに、啓介は百年の恋が冷めた。

 啓介と春恵は酒で知り合ったと言っていい。大学三年の夏休み直前のコンパだった。啓介は英文学専攻のゼミで、春恵はフランス文学だった。何故二人が知り合ったかというと、ちょうど大学の近くの居酒屋で、二つのゼミのコンパが偶然、隣り合わせであり、両方の教授が親友同士だったのである。途中で二つのゼミが合流したのだった。
 そしてほろ酔い加減の春恵が、偶然、隣に坐った。そして春恵が啓介に絡み、何度もキスを求めたときからだった。啓介は、そのとき彼女が押しつけてくる乳房に少し驚きながら、キスに応じた。コンパ後、啓介は春恵を部屋に来ないかと誘った。春恵は身体の相性がいいといった。啓介は誰と比べているのだろうと嫉妬したが、それよりも春恵の柔らかい肉感的な身体に溺れた。夏のあいだ二人は、外出は食事ぐらい、ほかの時間は啓介の部屋で互いの身体を貪った。二ヶ月して、ようやく春恵が四国出身であることを知った。

しかし大学四年の春、春恵は何回か連絡が付かないときがあり、帰ってくると酒の匂いがした。啓介は烈しい嫉妬に襲われた。問い詰めると「あなただけに束縛されたくない」と思わせぶりな言い方をした。その夜、啓介は春恵が厭がるほど彼女の身体を何度も求めたことがあった。春恵はそれを厭がって、一時期別れる別れないと口喧嘩したことがあった。何となく、よりを戻したとき、その後の啓介は嫉妬した自分を見せないように気を付けるようにした。度量のある男に見られたかったのである。
そういう過去があったので、春恵から酒の匂いがしたとき、啓介のなかで、酒イコールセックスイコール別の男と言う図式が瞬時に思いこんだのだった。さらに先々週の土曜日の早朝、ちょうど啓介がベッドから出てきたとき、春恵は外から戻って浴室から出てきたところだった。そのとき、啓介は春恵の左の乳房に明確な赤みを見つけた。キスマークだと確信した。しかし、今は、その激しい思いが不思議なくらい無くなっていた。

 明け方から降り続いていた雨は、夕方になっても衰えなかった。天気予報によると、梅雨前線が横たわって、数日は、こういう天気が続くと言っていた。
仕事を終えた啓介は、図書館の同僚たちに「ご苦労様」と挨拶をすると、職員用の鉄製の扉を開けた。
途端に激しい雨音と生暖かく黴臭い匂いが、べったりとまとわりついてきた。
そしてまだ夕方五時だというのに、暗く、夜だと勘違いした外のライトが点いていた。傘を開き、川のように雨が流れていく石畳の舗道を見て、思わず舌打ちをした。
ふと目を挙げると、啓介が帰ろうとする反対の舗道側に、女がしゃがみこんでいるのを発見した。
濃い紫色の傘が、舗道に放り出してある。女はずぶ濡れになり、地面に手をついて、何かを探しているようだった。肩からかけている大きな白のバッグが濡れて光っていた。白いTシャツが濡れて身体に張り付いて、女の細い体の線と、ブラジャーの白い線がはっきり透けて見えた。その光景は、啓介には酷くエロティックに見えた。
他の学生たちは、地面に這いつくばる女を避けるように邪魔そうに、女の横を通り過ぎていった。傘を開いて女に近づいた。その女が石川史子であることに気がついた。
「どうしたんですか」
啓介は声をかけたが、一心不乱に何かを捜しているせいか、それとも篠つく雨の音に消されたのか、史子には啓介の声が聞こえなかったらしい。
もう一度、啓介は声をかけた。史子は声に気がついて、顔を上げた。強い雨が史子の顔を叩いた。
「コンタクトを落としてしまったんです、あれがないと、私、何も見えなくて」
文学について語るときとは違う、弱々しい涙声でいった。史子は声をかけた男が、図書館員の啓介だとは気がつかなかったようだ。
また史子は、濡れた短い髪を何度も乱暴に片手で撫でながら、這うようにして捜しはじめた。
いつから捜しているんだろう。
啓介もしゃがみ込んで、一緒に史子のコンタクトレンズを捜しはじめた。
しかし地面は叩きつけるような雨で泡立ち揺れて、コンタクトを見つけることは不可能だった。そのとき、土と黴の匂いに混じって、桃の香りが一瞬した。暫くして史子は立ち上がった。
そして初めて史子は自分と一緒に捜してくれた男が、毎日会話をする図書館員だと言うことに気がついた。史子は何度も謝った。
「それより早く事務室に行って、タオルで拭いた方がいい、風邪ひいちゃうよ」。
史子はバッグを抱きかかえながら、啓介のあとに従った。一階の大学の事務室で、ふたりはスポーツタオルを借りて、啓介は男子トイレに、史子は女子トイレに入った。
啓介の背広は、たっぷりと水を含んでいた。髪を拭きながら、これから一時間、この服で電車に乗って家に帰るのかと思うと、うんざりした。やれやれと思いながら、トイレから出てくると、その入り口で史子が立って待っていた。髪だけは拭いたらしいが、まだTシャツがずぶ濡れだった。べったりと肌に張り付いていた。啓介は艶めかしさを感じた。
「まだ、濡れていますよ。風邪引くよ」
俯いた史子に声を掛けた。しかし史子の身体が小刻みに震えているのに気がついた。
「寒気がして」
史子はしゃがみ込んでしまった。とっさに史子の額に手を当てた。熱かった。史子の息も荒くなっていた。
「これは大変だ、病院へ行きましょう」
「大丈夫です」
「いや、肺炎になったらいけないから、病院へ」
史子は反論しなかった。携帯電話で、タクシーを呼びだした。史子は啓介に支えられるように、大学の通用門まで歩いた。タクシーにふたりは乗り込んだ。
「この近くに救急病院ありますか」
啓介は運転手に訊いた。
「この近くに、大学の付属病院があるよ。そこでいいかい」 
白髪混じりの運転手は啓介たちの方へ身体を向けて言った。
「お願いします、急いでお願いします」
激しく降る雨のなかを、タクシーは猛スピードで走った。
啓介に身を預けた史子の濡れて異常に冷え切った身体は細く感じた。史子の絶え間ない身体の震えが伝わってきた。 
「寒い、寒い」
何度も譫言のように呟く、史子の荒い息遣いに、このまま死んでしまうのではないか、という焦りを感じた。目をつぶった史子は、啓介の人差し指を痛いほど握りしめていた。
病院の緊急搬送口へ到着した啓介は、タクシーから降りると、病院へ駆け込んだ。受付の看護士に声を掛けると、ふたりの看護士が現れて、タクシーの中でぐったりとした史子を抱きかかえ、病院の奥へと連れていった。
残された啓介は病院の待合室へ行った。既に一般の受付は閉まり、訪れる外来客は居らず、待合室は静まり返っていた。椅子に座った啓介は、自分の服がまだ湿っているのに気がつき、舌打ちをした。その音が広い待合室に意外に響いた。 
 検査の結果、史子は気管支炎と肺炎を併発し、入院することが決まった。それと軽度の摂食障害があり、それが彼女の体力を奪っていた。雨だけが理由ではなかった。
入院して、病院の六人部屋のベッドで、点滴をすることになった。翌日、啓介は、仕事を終えた後、史子の見舞いに行った。史子の小柄な身体は、白い掛け布団に埋もれていた。薬の匂いと、桃の香りが混ざっていた。啓介の姿を見ると、史子は半身をおこした。史子は、さっきまで新潟から母が来ていたのだと言った。服や下着などの身の回りのものを持ってきてくれたのだという。
「医者が一週間ぐらい入院しろって」
史子は重い咳のなかで続けて言った。
「本当にすみませんでした、ありがとうございました」。  
「大事にならなくてよかったよ」。
 二日後にも仕事を終えたあと、啓介は史子の見舞いに行った。史子は、だいぶ顔色が良くなっていた。
北野英子の新作が載った、昨日出たばかりの文芸雑誌を史子に渡した。それは「あとがき」という作品だった。まだ啓介も読んでいなかった。しかし史子は北野英子の話をしても全く話題に乗ってこなかった。
ふたりのあいだに、何度も長く気まずい沈黙があった。重い咳を時折しながら史子は潤んだ目で、ベッドの横にある丸椅子に座った啓介を黙って凝視した。その頼りない縋るような目に、啓介は何か抱き締めたい衝動に襲われた。

啓介が家に戻ると、春恵は居なかった。コンビニで買った弁当をレンジで暖め直した。
この数日、会ったとしても、どちらかが寝ぼけ眼か、会社に行く寸前で、ろくに挨拶もしていなかった。それに冷凍庫にある夜食用のピラフが無くなっていたり、突然アイスコーヒーのペットボトルが三本、冷蔵庫を占めていたりしていた。そのとき、啓介は春恵を意識した。
ただキッチンのテーブルの上は、きれいだった。それは同棲するときの約束だった。というのは、以前、同棲を始めたふたりが、或る友人宅にいったとき、テーブルの上が汚かったことに、家に帰る道すがら、「あれは厭だ」と意見が一致したことがあるからだ。
きれいにであってな。完全な別居状態だよな。
啓介は弁当のフタを開けた。熱い湯気が立ち上った。食後、北野英子の新作「あとがき」を読み始めた。

 翌朝、目が覚めた啓介が、キッチンへ出てくると、下着姿の春恵が、コンビニのサンドウィッチを食べ終わり、インスタントコーヒーを飲んでいたところだった。啓介の顔を見るなり、大きく手を振った。
「お久しぶり、元気。私、さっき帰ってきたところ、啓介の分のサンド買って置いたよ。ああっ疲れた。シャワー浴びて、寝るよ」。
そう明るく言うと、春恵は浴室へ消えていった。
木製の椅子の背もたれに、だらしなく薄い青ののスーツが掛けられている。啓介は激しい嫌悪感を感じた。服を春恵の部屋の中に放り込んだ。それからインスタントコーヒーにたっぷりミルクを入れ、春恵が買ってきたサンドウィッチを食べはじめた。
啓介が食べ終わったとき、湯気と石鹸の匂いと共に、下着姿の春恵が現れた。啓介の前で春恵は大きな黄色のタオルで髪を拭きはじめた。そのとき、この女を抱いたのは、史子の入院騒ぎ直前だったことを啓介は思い出した。しかし、だからといって現在春恵を抱きたいとは思わなかった。
倦怠期か、それとも、この女に未練はないのか。
啓介には判らなかった。
「明日から、大坂に出張に行くことになったわ、お休みなさい」
春恵は死んだような声で、先ほど啓介が彼女のスーツを投げ込んだ部屋へ消えていった。

 仕事を終えると、啓介は、また史子の入院する病院へ向かった。病室にはいると、史子のベッドの周りにあるカーテンが閉まっていた。看護士が中から出てきた。
「どうしたんですか」
女の看護士に訊いたとき、カーテンの中から返事があった。
「点滴がはずれたんです、大丈夫です。どうぞ」
言われるままに啓介は、カーテンの中に入ると、史子は病院用の白い浴衣を着ていた。小柄な彼女の身体には合わない、一回り大きな浴衣だった。
「パジャマが汚れちゃったんです」
そう言いながら、史子は半身を起こした。そのとき浴衣の胸襟が大きく開き、乳房が見えた。思わず啓介は胸元を見つめてしまった。その視線に気がついた史子は、何も言わずに、ゆっくりと両手で襟を正した。ぎこちない空気が流れた。北野の「あとがき」を読んだかと史子に訊いたが、まだ読んでいないと首を横に振った。
病院の外へ出た啓介は、何故あの男は見舞いに来ないのだろうと思った。あの男とは、いつも図書館の前で待ち合わせをしていた、背の高い男である。そう思った瞬間、何を俺は考えているのだろうと心の中で呟いた。  

 高岡啓介のノートより。
北野英子「白紙」から。「日記の新しい頁に、あなたの名前を初めて書き込んだ。次の頁にも、次の頁にも。あなたの名前が次第に増えていく。 
様々なあなたの姿や表情を言葉にして描いていく。あなたの話したことを忠実に書き取る。夜更けに、それを私は何度も読み直す。すると頁ごとの、あなたの仕草ひとつひとつを思い出し、私は幸せを感じる。鋭い幸福の痛み。そして、忘却が、嘘でありますように、と祈る。」
啓介コメント・書くという行為は、忘却と闘うことである。

 「涼しくて、気持ちがいいですね」
梅雨明け直後、史子は冷房中の図書館に顕れ、カウンター越しに啓介に声を掛けてきた。いつもより明るい声だった。史子は柑橘系の香りに戻っていた。
あのあと啓介は何となく気後れし病院へは行かなかった。史子は咳が残り、退院後も何度か通院したのだという。
薄い水色の半袖を着た史子は何となく頬の肉が落ちているように思えた。しかし顔色は悪くない。
「ちゃんと食べていますか」
「ええ、もりもり食べていますよ。そうそう、高岡さん、見つけましたよ。いろいろお世話になったから、御礼です」。
そういうと、史子はクリーム色のショルダーバックのなかから、ビニール袋に包まれた一冊の本を取りだした。北野英子の作品『表紙』だった。啓介が探していた本である。それを啓介は手にとり、袋から取り出した。新本に近い。
代金を払う払わないで押し問答の末、「ずっと探していた本なんだから、どうです、快気祝いをしましょう、夕食でも」
「はい」
史子は嬉しそうに言った。
「和洋中、何がいいですか」
「うーん、おいしいもの」
突然、史子の表情が「女」から「子供」に変わった。その変化に、啓介は魅力を感じた。
「仕事が終わるのが五時半。六時に図書館前で」
「はい、おいしいものが食べられるなら、何時でも大丈夫です」
史子は楽しそうに笑いながら言った。史子の明るさに心が弾んだ。

 啓介は、史子を大学近くにあるイタリアンレストランへ連れていった。
食事中、ふたりは最近の作家や小説の話で盛り上がった。啓介は久しぶりに大いに喋り、相当ワインを飲んだ。
史子は北野の「あとがき」を読んだと言った。感想を聞くと「あんまりよくなかった」という返事だった。
食事を終えた史子は啓介に、私のところでコーヒーを飲まないかと聞いた。
誘われるままに啓介は従った。
史子の住むマンションは、このレストランから十分も掛からないところにあった。
史子の部屋は、整然と片づけられていた。
壁は天井まで本棚になっていて、奇麗に単行本や文庫がぎっしりと詰まっていた。ほかの家具は、ほとんど黒に統一されていた。何も女らしさを感じなかった。
しかし窓近くにあるベットのシーツが白く清楚だった。また部屋は柑橘系の香りに占められていて彩りがあり、ここにすむ住人が男ではないだろうと推測できた。
「ここに、他人を入れたことがないの」
あの背の高い男は来たことがないのか、一瞬、啓介は思った。
史子は「坐って、コーヒー入れるから」と促したが、衝動的に啓介は史子の腕を掴んだ。史子は逆らわず、微笑んだ。そして身体を啓介に預けた。細い胴体を啓介は抱き締めた。史子は華奢な身体で、強く抱くだけで壊れそうな感じだった。 
春恵は柔らかい身体だった。史子よりもセックスは淡泊である。
突然、史子と春恵を比較している自分を嫌悪し罵った。
史子は啓介をベッドへ向かい、ふたりは倒れ込んだ。ふたりは服を脱いだ。
啓介が史子の首筋から乳房へ、そして腹へ、撫でていくと、史子は声を出して喘いだ。その過敏な反応が、欲望を駆り立てた。次第に、史子の全身が汗で濡れてきた。
史子の中で果てた後、啓介はしばらく史子を抱いていた。柑橘系の香りよりも女の体臭が強く匂った。春恵よりも女らしさを感じた。
目を閉じていた史子が何かを言った。啓介は聞き取れなかったので、聞き直した。
「ようやく、新しい頁に、あなたの名前を書くことが出来た」
その言葉は、北野英子の『表紙』の結末にある、男に抱かれた女主人公の呟きだった。「俺も」そう言おうとしたとき、春恵の顔が浮かび、啓介は口を閉ざした。
 

高岡啓介のノート。
 北野英子「きぬぎぬのわかれ」より。
物語の内容。女(みさき)は男(邦秋)に裏切られた。邦秋は昔の女と寄りを戻していたことを知った、みさきは混乱して、邦秋の友人である洋一郎のところへ行ってしまう。洋一郎のマンションは高台にある。最初、洋一郎は手を出さない。みさきは自殺を図ろうとする。
それを止めさせるために、洋一郎はみさきを抱き締める。
(啓介コメント・設定が少々陳腐、結末を引用する)
 雨戸の隙間から、幾筋ものの光が漏れている。室内にある本棚、そこには歴史小説や推理小説が治まっている、机の上のパソコンが、ぼんやりと見える。
ここは私の部屋ではない。洋一郎さんの部屋だ。
窓際のハンガーに掛けられた、私のクリーム色のツーピース。私たちを見下ろしている。これは今日着るべき服ではなかった。何故ならば邦秋が私に買ってくれたものだったからだ。邦秋が「似合うよ」といってくれた。今日、こういうことがあると判っていれば、着ることはなかった。
(捨てよう)
 この服は、この「女」は、今まで洋一郎との行為を見つめていたのだ。「女」が私をきつい口調で責めた。
「邦秋を愛していないの」
「女」の鋭く尖った声が、私の脳髄に突き刺さった。痛い。
しかし、この「女」は、私ではない。この「女」は、私の抜け殻だ。邦秋でなければ生きていけなかった女だ。
「今は、愛していない」
私は「女」に呟いた。しかし「女」は何も答えない。
「もう、邦秋は私たちとは関係ないわ」
私は念を押すように強く言った。
「私たち」―その複数形の響きに、限りない幸福を覚えながら、私は頭を横に向けた。眼前に、洋一郎の眠っている、痩せた顔があった。先ほどの洋一郎との快楽が、身体の奥で蘇った。まだ漣のように鋭い快感が、躰の中で響いている。愛されている、確かな余韻だった。
 壁の時計は、五時二十分を示していた。既に電車が動いている頃だ。眠り続けている洋一郎を起こさないように、私は注意深くベッドから抜け出た。冷たい空気が思いかけずにひどく揺れ、裸の私を襲った。椅子の上に畳んで置いた下着を着た。そしてハンガーの、あのツーピースを着て、静かに時間をかけてきた。身支度を終えると、バッグの中から、手帳を取り出し、頁の一枚をゆっくりとちぎった。そして机に抛り出してあった青のボールペンで「私は、もう大丈夫。みさき」と記した。
部屋を出た。薄明かりの外の空気は沈んでいた。濃い紫色の空の下は、霧に埋もれていた。坂を下り始めたとき、いきなり霧が煌めきながら、急速に消えていく。
一直線の坂道の両脇に、規則正しく並ぶ銀杏の樹の列が、引いていく霧の波の中から浮き上がってきた。
私は立ち止まり、俄に顕れた街路樹と家並みを、呆然と見下ろしていた。その光景を見ている裡に、私は何かから解き放たれた気持となり、体中に熱い電流が駆けめぐった。それは単に目の前の空間が展けただけの感動ではなかった。
いま、ここに立っている場所が、洋一郎と共にいるという実感を覚えたのだった。
 啓介コメント・特権的な時間。私には、こういう時間があったのだろうか。                 

「もっと、啓介さんを知りたい」
夏の昼の光が、史子の部屋の奥まで眩しく入っていた。シャワーを浴び、腰にタオルを巻いて出てきた啓介に、遅い朝食の支度をしていた、Tシャツ姿の史子が声を掛けた。
「どういう風に、自伝的に、それとも精神分析的に、それとも肉体的に」
啓介はふざけていった。
「過去と未来を、つなぐもの」
真面目に史子は訊いてきた。
「昔、どういう夢を持っていたとか、今、何かの夢に向かっているとか」
それを聞いて、北野英子が、今春の文芸誌のロング・インタビューで、今年は「現実に夢を達成してしまった人間の物語を描きたいと思っているところです」と述べているのを思い出した。
そういえば、「あとがき」という小説は、「現実に夢を達成してしまった人間の物語」を描いていたな。
「夢ねぇ」
啓介は言葉に詰まった。
そう言うことを最近全然考えたことがない。
「ふみは、どうなの」
啓介は史子を「ふみ」と呼んでいた。
「今、夢の半分が叶った」
「好きな人とベッドの中でも、どこでも、いろんなことや、好きなことが語り合えるって、女って、夢の半分は、そんなものじゃないかしら」
北野英子の作品のどれかに、似たようなせりふがあったのを思い出した。二人の会話に北野の作品が、隠語のように忍び込んでいた。俺の夢か、何だろう。言えるのは、図書館員ではなかったはずだ。
「もう半分は、翻訳家になってフランスに行くとか、でも、フランス語が特別出来る訳じゃないから、現実的でないわ。何とか手に届きそうなのは、京都の出版社に入って、北野さん担当の編集者になる事かな」
何かしたいことがあったはず、しかし、思い出せない、駄目だ。いつから、そうなったんだ。ずるずる、何も考えずに、あじけない生活を送っている。惰性的生活、なにもかも。
「啓介さんは、何になりたかったの」
啓介は答えの代わりに「ビールでも飲むか」と訊いた。
「私、もってくる」
そういって、啓介の前を通り過ぎようとした。
その史子の腰に、啓介は抱きついた。啓介は、史子の首筋にキスをした。史子は啓介の手を取ると、手を胸に押しつけた。ひんやりとした、固い乳房があった。啓介は乳房を強く撫で始めた。
啓介は早くこの三角関係を壊さなくてはと思った。

10

「北野英子『栞』              高岡啓介
最近、私の中での小さなブームといってもいいのが、北野英子の作品群である。
現在刊行されているのが『表紙』、『断簡』、『書評』、『栞』、『永遠の落丁』(オリジナル文庫版)である。そのどれもが丁寧に構築された作品なので、どれを取り上げようか迷った。しかし、『栞』に決定したのは、あとがきに拠る。
「殺伐とした図書館の外よりも、館内にある蔵書の方が、私の心のバランスを保ち、慰めてくれるのである。それは逃避という言葉では表せないだろう。もっと豊かな場所である。」と記されている。
同じ仕事をしている私にとって全く同感であるからだ。それを先に言われてしまって少しばかり悔しい。
表題の短編は、中年男と女子大生の淡い恋と、その終わりが描かれている。だが、それよりも図書館独特の静寂さ、ゆっくりとした時間の流れ、本の匂い、そして仕事内容の的確な記述が描かれている。そして何よりも、」

11

春恵は、一週間経っても、「大阪」から戻ってきた気配がなかった。本当に「大阪」へ行ったのか。いや、随分前に大阪の新社屋の青写真を見せて貰ったことがある。それでも。何で連絡を寄越さないのか。啓介は少し頭に来ていた。連絡は一応寄越している。しかし一言だ。昨日、留守番電話が入っていた。「春恵です。当分、大阪にいます」、その声の後ろに、居酒屋か何かの場所から電話を寄越したのか、騒がしい。
それを二度ほど聞いて、啓介は「ふーん」と声を出しながら、リセットボタンを押していた。もう少し、何か言うことはないのか。

次の朝、啓介は史子のキッチンで向かい合って食事をしていた。幸福そうに均等に切ったフランスパンの上にハムを載せて食べている史子の顔を見ながら、こういう生活も悪くないと思いつつ、啓介はたっぷりとミルクの入ったコーヒーカップを口に持っていった。
そのとき、いきなり春恵の顔が、史子の顔の上に重なって見えた。もう大阪で別の男と生活をしているのではないか。今までにないほどの嫉妬の感情が突然襲った。いままさに、あの女は、その男と食事をしているのではないか。
しかし、すぐに今の自分の立場を思い返し、心中で苦笑いをした。それを俺がしているのだ。もうこうなったら、春恵とは別れる以外の道はないだろう。三角関係から早く脱出しなくてはいけない。このまま続けていれば、何か大変なことが起きるだろう。第一、俺は、この状態が耐えられない。そう思ったとき、史子がじっと啓介の顔をのぞき込んでいるのに気がついた。そのときだった。
「何か全然違うことを考えている」
史子が皿にフランスパンの切れ端を置いて呟いた。
「何考えているの」
きつい口調だった。
「いや、仕事のことを思い出したんだ」
「嘘、啓介さんは、違う女のことを考えている」
「そんなこと、ない」
「嘘つき。私を抱いているときも、違う女を考えている。あたしは、啓介さんの心も体も、掴みたい、あたしは、この間、啓介さんの所に電話をしたの。そしたら、女の人が出た。あたしは、切った。それでも好いと思った、でも」
言葉が途切れた。
「啓介さんには、あたしという頁がないの」
そう言うと、史子は俯いた。その文句は、北野の作品の『白紙』に出てくるヒロインが、男に言った別れの言葉だった。単に男の名前を変えただけだった。二人のあいだに沈黙が続いた。『白紙』では、しかし、二人のハッピーエンドが暗示されていた。小説は陳腐だ。現実はそんなものじゃない。
黙って、ボケットから、史子の部屋の鍵を取り出し、テーブルに置くと、部屋を出ていった。俺はいったい何をしているのだろう。

12

翌日、図書館の仕事を終えると、そのままマンションへ戻った。途中のコンビニで幕の内弁当と緑茶のペットボトルを買った。啓介がマンションの扉を開けようとしたが既に開いていた。一瞬、史子が来たのかと思った。そんなわけがない。
帰ってきたのか、啓介は呟いた。
春恵には、この不用心さがある。扉を開けるとき油が切れているのか、ぎっと音がした。その音を聞きつけ、走るように、クリーム色のトレーニングウェア姿の春恵が現れた。啓介は呆れたように春恵を見た。しかし春恵は嬉しそうだった。
「鍵、開いていたよ」
啓介は靴を脱ごうとした。
「あ、ごめん、それよりも。ね、啓介さんの、夢がかないそうなの」
妙にテンションが高い口調の春恵の身体から、甘いケーキのような、優しい匂いが仄かにした。この香りが、五年間変わってきていないことに、啓介は気がついた。
「夢、俺の夢?」
啓介は狼狽えた。史子からも「夢」という言葉を聞いたからだ。過去と未来をつなぐもの。
「啓介さん、覚えていないの」
「え」
啓介には全然検討がつかなかった。啓介は今日、初めて春恵の顔を見た。目が輝いている。突然、史子に欠けている何かを知った。春恵が啓介のレクチャーを受けているとき、いつも啓介をにらむように、目が輝いていた。しかし、史子と小説の話で盛り上がっていても、史子の目は何も変わらず、濡れたようだった。その潤んだ目で見られると、啓介の下半身が熱くなった。俺は史子の身体しか求めていなかったのか。
「啓ちゃん、聞いているの、ヒントは大学三年の冬、大雪が降ったときよ」
啓介から啓ちゃんに変わった。
啓ちゃんから啓介に変わったのは、いつからだろう。
それからじゃないか、なにかが変わったのは。春恵とあいだに何か不透明な膜のような、もどかしさを感じ始めたのは。
啓介には、しかし、まだ春恵の話が見えてこなかった。
「判らない」
大雪、覚えていない。
「嘘」
「本当だよ。教えてくれ。本ばかり並べてたら、忘れちゃったんだよ」
「あのね、あの大雪の夜にね、啓ちゃんと一晩中おしゃべりした。そのとき、啓ちゃんの夢は何って訊いたら」
それから春恵は、啓介の口調を真似しながら言った。
「春ちゃん、俺はね、古本屋の主人になって、珍しい本を、世界の果てまで、捜したいんだ。インディ・ジョーンズみたいに、スリリングな冒険をして。爺さんになったら、本の黴で臭くなった、狭くて薄暗い古本屋の、一番奥に籐椅子を置いて、『失われし時を求めて』を原書で読んで居るんだって」
啓介は記憶の糸を辿ろうとしたが、今春恵が行ったこと全てを思い出せなかった。それでも世界中の古本屋を回りたいということを、昔春恵に語ったことを思い出した。
春恵の声で現実に帰った。
「私は、その夢のことを忘れてなかったわ」
でも、大阪で男と一緒でなかったとは限らない。一瞬思ったが、目の前にいる春恵の、本当に嬉しそうな顔を見ていると、その嫉妬が解けてきた。
「この四年間、啓ちゃんから、いろんな小説や作家のこと、教わったでしょ」
春恵の目から涙がこぼれた。春恵が泣いたのはいつだっただろう。そうだ、書店の就職が決まったときだ。
あのとき、春恵は一日中、泣いたり、笑ったり、最後は疲れ切って子供のように眠ってしまった。
俺は子供のように眠る春恵が愛おしく、俺も春恵を抱えるように朝まで眠ってしまった。
「それに答えたくて、でも、だんだん、仕事が忙しくなって、なんとかしようって思っても、何もできなかった。会社もつまんなくなって」
そんなにつらかったのか。別の男と一緒で、楽しかったのではないのか。また啓介のなかで嫉妬が蘇ってきた。
「そしたら、この間、社長に呼ばれたの。社長から大阪の古書部門の準備と、その開店後を任せるって。この時ね、大学三年の時に話してくれた啓ちゃんの夢を思い出したの」
春恵がほんのり笑った。その微笑みが何とも言えず可愛かった。最近、春恵の微笑みがなかった。いや、俺の方も、それを見て嬉しくなるような時間を失っていた。
「大阪に行っていたのは、その準備だったのよ」
自分にも夢があったのか。春恵に話していたのか。俺は忘れていた。
「それで、私は直ぐに条件を言ったわ。古書部の品揃えに相応しい、最高の目利きが居るから雇って欲しいって。それと、来年春の古書部の開店記念には、是非ある作家の講演をして欲しいって頼んだの。両方とも即OKだった。その講演者に、昨日頼みに行ってきた。そのときね、私の恋人が、あたしが嫉妬するぐらいの大ファンがいますっていったの、でも一冊だけどうしても手に入らないって言ったら、先生は自分の本棚から取り出してサインを書いてくれたの」
そこで春恵はいったん間をおいた。そしてバッグから、本を取りだした。『表紙』だった。春恵は表紙をめくった。「北野英子」と記してある。史子から『表紙』を貰ったことを春恵に伝えていなかったことを思い出した。それだけ俺と春恵とのあいだが離れていたのだ。
「でもね、サインを貰ったのは好いんだけれど、帰りの新幹線で、中見たら、七十頁の次が七十七頁になっていて、だから啓ちゃん、今度大阪に行ったら、サインを貰い直そうよ」
「啓ちゃん、大阪に行こう。行きたくないの。それだったら、断る」
沈黙する啓介の顔をのぞき込むように春恵が見た。
「え、そんなこと、あらへんで」
啓介は慌てて怪しげな関西弁で答えた。
「行こ。大阪へ行こ」
啓介は作り笑いをして、春恵を抱いた。暖かかった。
「ね、今まで、ごめんな。コンビニ弁当ばかりで。今日は、ちゃんと作ったやわ。サラダだけやけどな、それとステーキ、おいしいワインを買ってきたん」
春恵も怪しげな関西弁で言った。言いながら自分の言い方がおかしくて、春恵は一人で愉しげに笑った。
「でもな」
啓介は靴を脱ぎながら言った。
「何か、あるの」
春恵は心配げに言った。
「いや、俺が夢を語ったのは、春ちゃんの家じゃなくて、渋谷の喫茶店だったと思う」
「どっちでも、ええとちゃうか」
春恵はころころと笑った。この春恵の天真爛漫な笑いを失ってはいけないと啓介は思った。

13

七月の終わり、春恵の書店から正式に古書部門顧問として雇うということが決定し、啓介は退職届を出した。
それは受理され、八月末に図書館を後にすることになった。啓介は図書館での業務を同僚やアルバイトに移していき、次第に減らしていった。そして書評は違う人に書いて貰うこととした。北野英子について書く気が失せていたのだ。もう書くまいと思った。史子を思いだしてしまうからだ。しかし大阪へ行けば、講演会で北野に会うことになるだろう。何か皮肉としか言いようがないと思った。
啓介は図書館で史子を見かけることはなかった。
ただ史子と待ち合わせをしていた、あの背の高い男が、夏休みにはいると、何度も図書館に来て、研究書を借り出した。史子と同じ仏文科の四年生だった。彼は卒論の下書を書いているらしい。卒論は、借り出した本や論文から推測するに、アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』のようである。この男は、俺のことを知っているのだろうか。史子から聞いているのではないか。知っていて、表情変えずに、本を借りてくるのならば、それはそれで強い意志の持ち主なのかもしれない。まるで『嫉妬』のあのブラインド越しから見る眼のようだと思った。本来ならば、史子の人生は、この男と深く関わり、史子と俺の関係は、別の形で、それも極浅く淡い関係だっただろう。雨が降らなければ、史子のコンタクトレンズが落ちなければ、史子が肺炎を起こさなければ、いや問題なのは、あの雨の夕方に、その場に俺が立ち会わせたことにある。
これは、もしも神が居るならば、その神の悪意ある悪戯である。いや、これは、神とか偶然とかの名を借りた、男のエゴだろう。春恵という女が居ながら、俺は弱い。春恵との関係が醒めていなく、自分の夢も忘れていなければ、史子は単なるエキストラだったのだ。俺が悪い。いや、魔がさしたんだ。しかし、もはや、俺にとって、史子は、通りすがりではない。今後、史子が俺の前に現れて、史子から責められても、何もいえない。
あたしを見ていない、繰り返し、史子の声が俺を責める。啓介は、史子が目の前に顕れるのではないか妄想した。
「いつまでも、お待ちしています」
いつも史子が待ち合わせをしていた、図書館の前に別の女が立っていたり、或いは図書館の扉が開いて柑橘系の香りが入ってくると、心臓の音が耳の奥で激しく鳴り響いた。
そのとき、史子が啓介のところへ電話をして、春恵が電話にでたと言っていたことを思い出した。何を話ししたのだろう。春恵は全て知っているのではないかと思った。しかし聞けるわけがない。いや、あの明るい笑いに嘘はないだろうと思った。神経質になりすぎているな。啓介は自分の怯えかたを嘲笑った。
再び、古書部の件で、春恵が一週間、大阪に出張しに行った夜中のことだった。毎夜、啓介は、史子の桃の香りに溺れている夢を見続けた。史子の淫らな声と、激しい快感とともに目が覚めた。下着を取り替えなければならないほど、汗で濡れていた。史子の壊れそうな身体の感触が、生々しく啓介の手に残っていた。
  
しかし結局、史子は啓介に顔を見せなかった。何も起きなかった。現実は小説ではない。ホッとした。大阪から戻ってきた春恵は、嬉しそうに部屋の片づけをしていた。春恵は以前よりも生き生きとしていた。その夜、春恵を抱いたとき、少し太った気がした。啓介にとって心休まるものだった。

数日後、啓介と春恵は、新幹線で大阪へ向かった。春恵は啓介よりも先に、北野英子の最新の単行本『きぬぎぬのわかれ』を読んでいた。一方、啓介は大阪や京都などの古書店の目録をチェックしていた。
列車が軽く揺れた後、啓介は外を眺めた。まだ残暑の強い光が街並みを照らしていた。自分の顔がガラスに映った。
突然、史子から逃げ出してきたような気持に襲われ、どうしても新しい出発とは思えなかった。本当に昔見た「夢」が、思った通りに実現するのか不安だった。しかし、それでも、東京から離れることが自分にとって必要なのだと言い聞かせた。それが春恵のレールに敷かれたレールだとしても、新しい出発なのだと思いこもうとした。忘れろ、忘れろ。史子のことは、もう過去に閉じこめろ。春恵の横顔を見ながら、ちゃんとけじめを付けよう、と思った。春恵は啓介の視線に気が付いた。
「どうしたの」
「何でもない」
「ねぇ啓ちゃん、前から思っていたんだけれど、私ね、来年の春の開店に併せて、北野さんの特集をした冊子を出したいと思っているの、私のせいで、大学新聞で、北野さんの書評、書けなかったでしょ、だから、是非、啓ちゃんに書いて貰いたいの、いいでしょう、どう」。
その一点の曇りもない笑顔につられて、啓介は頷くほかなかった。

14

さきほど啓ちゃんが帰った。
何故、啓ちゃんが来たのか、忘れないためにも、ここに書いておこうと思う。
 真夜中のことだった。朝から降る雪は、まだ止まなかった。
東京では珍しい。
私は、一日中、大学のゼミのレポートを書いていた。来週大学が始まったら直ぐに提出しなければならない。書いているのは、フローベールの『感情教育』だ。これは自分で選んだのではない。教授から与えられた課題だ。つくづくフランス文学を選んだのは失敗だったと思う。訳は下手だし、それよりも辞書を引くのが面倒だ。やはり日本文学科の方がよかった。
夜中の一時。携帯が鳴った。その音で驚く。
啓ちゃんからだった。彼とは数日前に些細なことで口喧嘩をして連絡をしていなかった。最近、何かと意見が違う。お互い、それに気が付いている。お互い、苛々している。
どうにかしなくてはと思って、それを伝えようとするが、なかなか難しい。何か隙間が出来ている。
 彼は「どうしたの」と訊くと「外にいる」という。
私は驚き、窓を開け外を見た。私の部屋は二階にあった。
その直ぐ下に、鮮やかな青のスキー・ジャケットを着た彼が立っていた。私が去年のクリスマスの時に買ったジャケットだ。彼は嬉しそうに私を下に降りてくるように手で招いた。
私は何事かと思い、白いジャケットを羽織ると下へ降りた。頬の皮膚が切れるような寒さだった。
「雪合戦しよう」
彼は有無を言わさず私を近くの公園へ引っ張っていた。
彼はニコニコして、雪を丸めて私にぶつけてきた。
こんな夜遅くにと頭に来た私も雪玉を作り投げつけた。  
「やられた」
彼は大声を出し、大げさに倒れた。
「静かにしてよ」
小さい声で抗議をすると、また雪玉を投げつけてきた。私に当たると、彼は歓声を挙げた。彼も私も夢中になった。私は啓ちゃんについての小さな不満を雪玉に託して投げたら、すっきりした。そして体が温まった。
投げるのに疲れると、彼は「みんなを驚かそう」といって、雪の玉を転がし始めた。私も汗だくになって、もうひとつの大きな雪玉を作った。一m程の高さの雪だるまが出来た。出来上がったのは、夜中の三時だった。道の真ん中に、雪だるまが出来上がったとき、彼は大声で万歳三唱した。私も馬鹿なことをしているなと思いながら、こんなに愉しい雪の夜はないと思った。彼も私も躰が冷えきってしまっていた。
彼は私のところで、熱い風呂に入った。続けて私も。風呂から出てくると、彼はまだ眠っていなかった。彼と私は、布団のなかで未来の話をした。啓ちゃんはインディ・ジョーンズのように、世界中を駆け回って、世にも稀な古本を捜したいのだと言った。私は「贅沢だ」といった。ロマンチストだと思ったが、夢がないよりも断然いい。今夜みたいな子供っぽいところは直して貰いたいが。
私は何になりたいのだろう。私は何もない。色々考えてもない。未来が見えてこない。
そのうち彼が寝ると言った。私も寝ようとしたら、彼が私の躰を触った。冷たい指がくすぐったかった。私は「止めてよ」と笑いながら言ったが、くすぐり続けた。私は笑いすぎて、涙が止まらなくなった。しばらく私たちは布団のなかでふざけた。そのとき音を立てるほどの雨が聞こえた。
昼過ぎに私たちは目覚めた。外は快晴だった。
雪だるまは半分崩れていた。
彼が「壊れちゃったね」と寂しくいった。
何があっても、こんな愉しい雪の夜を、昨夜のことは生涯忘れないだろう。     

(完)

XOOPS Cube PROJECT