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先生方の作品集

声の行方  

作:山田篤朗                               

 私はひとりの女性を捜していた。

 まだ足が痛くて立ち上がれないの。
ベッドの上でごめんなさいね。
大腿骨を骨折しちゃって。歩けないのよ。
あと数週間入院していないと駄目なんだって。
何でかって。馬鹿なことしちゃったの。
それより、もう一回あいつの写真見せて。
上手く撮れてるね。
ところで、あいつ何で捕まったの。
 ヤクの売買。馬鹿だね。
自分でも使ってたの。
それはない。
他に捕まったのはいないの。
ほんと馬鹿な奴。
 ところで何で、こんな殺風景な所へわざわざ。
あいつの携帯に、実家の電話番号が入ってたの。へぇ信じられない。
 あいつの話、聞きたいの。これ、あいつの不利になるの。
違うの。いいですよ。
ここにいると暇だし。
それに親なんかに話せないことばかりだし。
 今年。
そう、まだ今年四月の話なんだよね、ずいぶん昔みたいなんだけれど。
東京へ行きたくて、それで親の反対押し切って東京の大学受けたの、一〇ぐらいかな、どれか受かるだろうと思ってね。
でも、あんまり頭良くないから落ち続けた。あせったね。
でも何とか、一つ合格。嬉しかった。
それで品川にマンション借りて待望の独り暮らし。
といっても全部、親の仕送りだから本当の自由じゃない。
 でも、せっかく入った大学は全然つまんなくて。
倶楽部や同好会に入って群れるのも厭だったし。
講義終わると渋谷、原宿、にぎやかなところうろうろ。独りよ、もちろん。いま思うと、やっぱり友達が欲しかったんだよね。
でも、そんなところ歩いてもちゃんとした友達が出来る訳じゃないし、男の人に声を掛けられると、逃げ出して。臆病。
結局ぼんやり、ゲームセンターで、つまんない時間と、つまんないお金を使って、馬鹿みたいに熱中してた。
寂しい自分の存在を消そうとしてた。とにかく寂しかった。
部屋に戻ってベッドに転がると、どーっと静けさが襲ってくるの。冷蔵庫の音だけ。耐えられなかった。
 独りきりになるのを望んでたのにね。
あとで考えると多分ホームシックよ。
でも当時は実家が原因なんて考えられなかったし、親からの電話も面倒。
話を、ちゃんと聞いてくれる人が、めっちゃ欲しかったの。
そんな寂しい女がキャッチセールスに引っかかるのは目に見えてるよね。
新宿の歩行者天国よ、あいつにあったのは。
辻間修。
あなた、それって本名じゃないでしょ。やっぱね。
 いつもみたいに新宿ふらふらしてたら声を掛けてきたの。
確か地味な濃い鼠色、全然目立たない背広着て。
宝石デザイン事務所の営業って丁寧な挨拶。
でも、それは上辺だけ。危ないやつと思った。
直感、割と当たる。
だけど日本人離れした甘いマスク。
昔の小説家に太宰治っていう人がいたんだけど。
あっ、知ってますか、
そうそう女の人と心中しちゃった人。
昔、文学好きのオタクにそっくりっていわれたんだって。
太宰さんの写真見たけど鼻だけちょっと似てる。背の高いのも似てるかな。そういう外見だけで、この田舎娘は簡単に参っちゃったんですね。
ゾクゾクしたよ、今まで周りに、ああいうタイプはいなかった。
未知との遭遇、一目惚れ。飛んで火にいる夏の虫。
 あいつは客で賑わってるドラッグストアの横に引っ張って、手に抱えてた鞄から宝石のパンフレットを渡して見せてさ、指輪やブレスレッドやピアスを買わないかって。
そのパンフに印刷されてる、もの凄い値段が黒のマジックで消されてて「本当にこんな値段で好いの」って驚くぐらいの安い値段に書き直されてた。一桁も二桁も違う。
ほんと驚いた。
その値段は親の仕送りから何とか、ひねり出せるって思った。
見境無く、そこから花模様の銀細工のブレスレッドと十八金のイヤリングを選んじゃった。
 「これはあなたに合って、上品でいいですね」
上品だなんて生真面目にいったの。
上品。
聞いたことがない言葉だった。
 「宝石は別の所に置いてありますから事務所まで来ていただけませんか、事務所は、ここをまっすぐに行ったところにあります」
 催眠術にかかったみたいに寄り添うように歩き出した。
あたしは心臓の音があいつに聞こえないかって心配。
煙草の匂い、体臭、かすかな甘い香水。もう駄目。心がしびれて身体が火照った。
歩いてるあいだ、あいつは最新のファッションの話をした。
ブランドで有名な、高い店を幾つか並べ立てた。
低い声で耳許で。
そんなもん身につけていなかったし持ってもいなかった。
その日だって、たいしたことがない。
でも背伸び。
実家にいたときに読んだ雑誌やコンビニの立ち読みしたファッション雑誌の知識を総動員。
 よく知っているね、その通り、いい感性だね、ちょっと驚いた、エトセトラエトセトラ。
誉め殺しの連発。
私は有頂天。
まぁキャッチセールスの手なんだろうけど見事術中にはまっちゃった。蜘蛛の巣に引っかかったチョウチョ。
横で話すあいつの唇の動きに見とれ、いとおしかった。
でも、そういう話よりも、とにかく話がしたかったの。
とうとうファッションや宝石のウンチクを無理やり打ち切って自分のことばかり話し始めたの。
田舎のこと、高校の友人のこと、大学のこと、今の気持、冷蔵庫の音。
今から考えると他人には全然面白くも何ともないことを喋り続けた。
バンバンぶつけた。でも、あいつは黙ってニコニコして相槌を打ってくれた。東京へ出てきて、その時、初めて気持ちを喋った。
嬉しくて嬉しくて、でもビルの前。
 歌舞伎町のはずれ、五階建てのビルは清潔な白いビルだった。
一階飲み屋、二階ビデオ屋、三階が事務所。新しい階段。何も記されていない青い扉は鮮やかだった。
 部屋ん中は蛍光灯が妙に明るくて一〇畳ぐらいかな、薄い緑色のカーペットにフローリングされていて、大きな事務机が三つ、私の仲間の机だって、でも、そのあと仲間には一度もあったことはない。
机の上は電話以外何も置かれていなかった。
壁には大きな棚、さっき見せてくれた宝石のパンフレットの束が少し崩れかかって置かれてあった。
 あいつは部屋の隅にある馬鹿でかい金庫の中を開けると、三つの大きなアルミ製のアタッシュケースを取り出した。それを机の上に載せた。
そして順々に中を開けた。
 最初のケースはね、ダイヤやルビーが輝く指輪が並んでた。
言葉を失ったね。初めて見た。
次のケースには細長いケースに入った金銀のネックレスが二段になっていた。思わず溜息。
最後はブレスレッドとイヤリングが乱雑に放り込まれてた。どれもが今まで見たこともない輝き。
しばらく呆然。頭くらくら。
そこから欲しいっていったブレスレッドとイヤリング、それと銀色に輝くネックレスを手品師みたいに取り出した。  
「ネックレスは、おまけです」
そのネックレスの値札には思ってたより一桁違ってた。いらないって小さい声でいったんだけど、手のひらのなかに掴ませた。
 「お買い上げ、ありがとうございました」
 まじめにいうの。それから二週間あいつから連絡がなかった。実は毎日新宿ばかり行って、あいつが立っていないか捜し歩いた。
 二週間経って、携帯で、あいつの声を聞いたとき心が締めつけられた。
化粧丹念下着新品、新宿東口にあるアルタの前で待ち合わせ。
あいつは渋めの焦茶色の高そうな背広を着てた。
どきどきしながら、あの事務所へ。今度は三点。マジックで書かれた値段の更に半額。銀の糸くずみたいに繊細なデザインのイヤリング。虹色の模様のある石のネックレス。貝をデフォルメしたブレスレッド。大きな猫目石のブローチを貰っちゃった。
 今。その宝石、持ってませんよ。全部、捨てちゃった。
 なんでかって、話の順序があるんだから、急がせないでよ、ね。聞いて。別に急いでないでしょ。
そのあと六本木のめっちゃ高いブティックに連れて行かれて、そこで猫目石のブローチに似合う黒のしゃれたワンピースドレスを買ってくれたの。
その格好で超豪華なフレンチ・レストランに連れていってくれたわ。
今までテレビや写真でしか見たことない、美しく飾った料理が目の前。
それでも「落ち着け、落ち着け」っていい聞かせて、高校の時に授業で教わったマナーを思い出しながら、必死に牛ヒレ肉をナイフとフォークで動かしながら食べた。とろけそうな柔らかさ。
あのときの姿見たら嗤っちゃうよ。
ガタガタロボット。
恥ずかしくて。
でも、味、覚えてますよ。
フル・コースはフランス語で書かれてて何が何だか判らなかったけど、全部めっちゃ上品で、おいしかった。
ワインも上品、それにあいつの言葉も宝石。
その夜、ちゃっかりと赤坂の洒落たホテルを予約してた。あいつに身を任せた。もちろん初めての夜。がっしりしていて、胸毛やすね毛は濃いのに何故か腕や手は毛が無くて、滑らかで、すべすべしてた。その手で全身を舐められるような愛撫。最高。朝焼けが綺麗だった。
それから毎日のように大学の講義を終えると、すぐにあいつと会った。母さんからの留守電を無視して会い続けた。
当時、相手の心が判る心理学っていうのが好きで、あいつとの相性を調べたんだけど、どんな本でも二人の相性は最悪、お互いを認め合わない、違う夢を見てる、最低。だから占いを信じるのを辞めたの、あいつが好きだっていう心しか信じなかった。
講義中、あいつのことばかり考えた。
いやらしいこと。全身が、心全体が火照って息苦しくなって途中で席を立ったこともある。あいつが来る一時間も前に約束した場所で待ってて、苦しくなってトイレに駆け込んだ。
毎日おいしいところやしゃれたバーへ連れていってくれた。
それはそれは大人の恋という感じ。
といっても、それまで恋らしい恋はしてない。
初恋は小学校三年生。その後は片思いばっかり。だから相思相愛は初めて。あいつは紳士だった。テクニックも上手かったし。
短いあいだにイヤらしくなった。
エロビデオやエロ本の話題ばかりの周りの男の学生たちが、あまりにも子供子供しててアホにみえた。女は女でミーハー、いい恋しろよなって心のなかで舌だして。もちろん彼女たちの幼い話なんかに参加なんてしない。
その分、別れたあとの寂しさが募った。あいつは音が余りしない冷蔵庫を買ってくれた。耐えられない。あいつは三度に一度は駆けつけてくれた。昼までベッドのなかで戯れた。
あいつが帰ったあと「結婚」っていう言葉が浮かんだ。
何だか嬉しくって、ひとりでずっと声を出して歌ったり笑ってた。
誰かが見てたら危ない人。
その日の夕方、近くのスーパーで二人分の茶碗とか皿とか箸とか食器を揃えちゃった。馬鹿なあたしは幸せだった。
 あなたは結婚してんの。
お見合い、それとも恋愛。
恋愛か。
じゃ、気持ち、わかってくれるよね。
でも大学が夏休みに入った頃、あいつから、まったく連絡が来なくなった。携帯は圏外で新宿にも、あいつの姿はなし。
あいつがいない、自然に涙が出て新宿をうろうろした。
あの事務所の前でしゃがんで夜を明かしたこともある。
馬鹿みたいに涙がこぼれた。あいつに抱かれる夢ばかり見た。
でも途中で、もの凄い力がうしろから両肩を掴んで引き剥がすの。それで目が覚める。怖かった。

いくら電話をしても出ないのです。探偵さん、御願いです。
私と一緒に娘の部屋を見に行っていただけないでしょうか。
ひとりで行くのが怖いんです。
 女子大生の娘がいなくなったと、白髪混じりの小柄な女性が私立探偵事務所に飛び込んで来た。
所長は別の仕事で書類のコピー取りをしていた私に声を掛け、初めて仕事を命じた。私は少し驚いた。
 大学卒業後、私は幾つかの職を転々としていた。
どれもこれも長続きしなかった。理由は簡単、遊びたいときに遊び金がなくなったらバイトという生活だったからだ。
 この私立探偵事務所に勤めることになったのも、今駆け込んできた依頼者のように切実ではなかった。
ある日、新宿の繁華街へふらりと出かけたとき「人を捜します・浮気調査・秘密厳守」と書かれた「探偵事務所」の看板が目についた。
その下に「アルバイト・正社員求む」を見て、面白そうだと安易に思ったのだ。受かるとは思わなかったが、私はいつも細かく折り畳んだ履歴書を持ち歩いていた。その足で面接をした。呆気にとられるほど簡単に入社した。
一〇人ほどの社員がいた。コピー取りやファイリングなどの雑用だったが、猫の手も借りたいほどの忙しさだった。
私が雇われたのは、その猫の手程度の価値しかないのだと、直ぐに理解した。同時に、それだけ行方不明者や浮気調査が多いということに驚いた。それが現代社会だった。
ただ助手のようなことをしているうちに、人間は実に面白い生き物だと思った。この感想を所長にいうと、「そうだろ、そうだろ」と笑い、「おまえは、この仕事にむいているな」といった。
それから半年経って、この母親の依頼が私にとって初めてで突然の仕事だったのだ。
取りあえず母親と共に、娘が住むという品川駅近くのマンションへと向かった。

 一月ぐらいたった明け方、部屋のドアをせわしなく叩く音。
目が覚めた。あいつの声。
その声にベッドから飛び出した。
あいつの目の下には隈が出来てた。
黙ってる。
あいつの腕を取って部屋の中に入れた。
酒臭かった。開口一番。
 「事務所の経営がうまくいっていないんだ。すまん。金を貸してくれないか」
 金額は五〇万。今考えれば宝石の事務所の経営で、たった五〇万なんて嘘ばっかり。ギャンブルでしょ。
でも当時あいつしか見えなかったし、あいつの言葉が絶対。
といっても、親のスネ囓る学生には、そんな大金を工面できるはずがない。
どうすることも出来ず困って涙ぐむあたしを見ながら、あいつは目をウルウル、ヌケヌケいった。
 「できれば、ここで借りてきて。知り合いなんだ」
あいつはポケットからきれいに畳んだ紙を取り出した。
それは上野にある金融ローンの地図だった。
手際の良さ、あいつの計画通り。
 あと印鑑と健康保険証ある、それと小銭貸してくれないかな。
ちょっと煙草を買ってきたい。
修ちゃん、何か食べたの。
何も。
じゃ一緒にコンビニに行って何か買おうよ。
ありがとう。
馬鹿な会話。
でもあいつが目の前にいるだけで幸せ。
コンビニで弁当と煙草を買って家に戻ると、いきなり襲った。嬉しかった。
融けてしまいそうな愛撫。汗と煙草くさいのも関係なかった。なかへ入ってきたときの幸福。
救いたい。
少し眠ってシャワーを浴び、太陽が照りつける外へ出た。地図に書かれた金融ローンに向かった。
 金融ローンは上野公園を横切った所にあった。
古臭いビル。その二階、茶色で錆びた扉を開けると、ぎぎぎぎっと歯が浮くような音がした。
 「ごめんください」
中へはいると歌舞伎町の事務所とは正反対の汚い場所。
天井まで段ボールが積み重なって倉庫か物置。
だから部屋の一角に机と椅子があって、その椅子に男が座ってんなんて気がつかなかった。部屋と同化してた。
男の視線に気がついて思わず「ア」って声を挙げた。
小柄で痩せた男が灰色の背広を着て大きな椅子に座ってた。
年齢不詳。額に三本の深い皺、
でも眼だけがギラギラ、まるで夜の猫の目みたいだった。
その男はあたしの顔をじっと観察してた。
 「辻間修の使いのものですが」
 声が震えてた。
 「はい、先ほど連絡がありましたよ。はいはい」
 妙に高い声だった。
男は軽く手で呼び寄せると机の中から数枚の紙とボールペンと厚みのある封筒を取り出した。
 「ここに御名前と生年月日とハンコを御願いします。こことこことここに。よろしく御願い、ね」
オカマっぽいキンキン声に笑いそうになった。
笑いをこらえて少し手が震えた。いわれたとおりに書き込んだ。
そのあいだ坐ってるオカマはニヤニヤしながら、あたしの顔を覗き込んでいた。
書き終わって、書類を手渡すと、オカマは何度も書き込んだ場所を、いやに白い左手の人差し指で何度も押すように確認した。
 「はい、ご苦労様です。辻間さんによろしく、ね」
 歯茎を出して笑う男から茶封筒を渡された。
 「確認してね」
 封筒にはピン札一万円札五〇枚が入ってた。部屋を出ると一目散に家に戻った。あいつはゴロリと横、煙草を吸いながらテレビを見てた。
 「お金、借りてきました」
あいつは何もいわずに受け取り、さっさとズボンの後ろポケットにねじり込んで家を出ていってしまった。
呆然。一週間、待った。切ない七日間。
実家から送ってきた林檎が腐って部屋が澱んでいた。
大学は夏休み、どこも行くことがない。
ノロノロ、ベッドから這い出し遅い昼ご飯を食べようとしていたとき、あいつは突然現れた。
「食べに行こう」
 キレイに着飾った。あのフレンチ・レストラン。
食後、あいつはテーブルの上に、このあいだのお金全額と宝石を何点か置いて、ありがとうといった。
お金が戻ってくるとは思わなかった。涙が止まらなかった。
「一緒に暮らそう」
突然の言葉に声を出して泣いちゃった。
それからあいつはあたしの所へ転がり込んできた。
着の身着のままって感じ。
ただCD100枚ぐらいと、自分の鼻に似ていて凄く気になるんだって筑摩文庫版の太宰治全集全十巻を抱えてきた。
 「ひどい嘘つきなんだよ、でも切ない奴なんだ」
あいつが好きならと読んでみたけど、単なる甘ったれと思った。途中で抛り出した。どうしてこんなのが好きなのかしら。解らなかった。
 その直後だった、八月二七日の夕方。
場所はマンションのあたしの部屋五階。
キャミソール姿で、部屋は冷房ガンガン、CDラジカセで、あいつが好きなジャニス・ジョプリンのハスキーボイスを聞いてた。
そしたら部屋がオレンジ色になった。
外も見事にオレンジ。火事かと思って階段を駆け下りた。
外は風のない、蒸し暑い気怠い空気だった。
空はオレンジがかった赤だった。
凄い空の色だった。身体中に震えが来た。
そこへあいつが戻ってきた。パチンコ屋からの帰り。
道の真ん中で下着姿で空を眺めてるのに驚いたらしい。
ま、誰だって驚くよ。
駆け寄って背中を軽く叩いて大丈夫か、って訊いた。
あいつの動揺がおかしくって笑いながら、空を指さした。
「世界の終わりみたい」
 そう答えたら、あいつは何もいわずに、あたしの部屋に向かった。
追いかけた。
そしてオレンジ色に充たされた部屋で、初めてあたしから身体を求めた。
あいつと一体となったとき、細胞全部が生きてるぞって叫んだ。
永遠に続けばいいと思った。
でも部屋はオレンジ色から赤紫へ、紫へ、藍色へ、そして闇になった。
 それから、いつものような普通の夕焼け、いつものような惰性の生活。
部屋は散らかし放題。
好きなときにあいつは抱いたし、その時だけの快楽に狎れてしまった。
大学も両親も思い出さなくなってた。
いつもいて煙草を吸ってテレビ見てた。たまにパチンコ。一度も「宝石デザイン事務所」に行く素振りもなかった。部屋は煙草のヤニと男の臭いがこびりついた。
近くのコンビニか酒屋に行くぐらい、デートなんか全然なし。ほとんど丼ものかピザを頼んだ。
あたしも煙草を吸うようになり酒を呑むようになった。一人でパチンコ屋に行くようになった。
でも、あたしたちはヤクには手を出していないからね。
ヤオロズの神に誓うよ。
 あいつの携帯に時々連絡が入る。
するとだいたいは朝帰り。明らかにあたしのと違う香水や、うちにあるシャンプーとは違う匂いが、あいつの身体からした。
嫉妬、心が乱れた。でもそういう態度を見せると嫌われると思った。出来るだけ無視。
 あいつはまた上野に行ってくれないかと頼んできた。
同額。この前の五〇万円は、この半月の荒んだ生活に使っちゃった。
いくらあっても足りなかった。仕送りのお金も使い込んで家賃が払えなくなってた。
お金が欲しい。
もう麻痺してた。
燃え上がるような残暑のなか上野へ走った。
あのオカマは、ひとの顔を見るなり「やつれたわね、女らしくなった」と、また歯茎を出して笑った。
あいつにいわれた金額よりも高い金額を貸してといった。
 「あら、いいわよ」
 数枚の書類を書き込むあいだ、
オカマは背後に回って何度も「いい香りになったわねぇ」。
甲高い声に悪寒がした。もうここには来るまい。
オカマは以前と同じ色の茶封筒を渡そうとした。手を出すと手首を掴んだ。思いがけない強い力だった。汗でべとべとした手だった。
 「離して」
 強くいった。
 「かわいいわね」
 もう一度いうと手を離し封筒を渡した。
 「よろしくねって、伝えて頂戴」
 何もいわずに部屋を飛び出した。まっすぐ銀行へ向かった。
家賃や電気代を払うと高めのワインを買って帰った。
あいつは金を受け取ると部屋を出ていった。
独りでワインを開けて半分飲んで寝ちゃった。夜中に戻ってきた。酔っ払ってた。眠ってたあたしを叩き起こし無理やり犯した。
 一週間後、また金を借りてきて欲しいと頼んだ。
オカマの所へ行くのはいやだったが、あいつのためならと上野へ。オカマはお尻を一度撫でた。吐き気。
帰ると、あいつにお尻を触られたと感情をぶつけた。
あいつは嗤いながら怒っておくよといった。
 夏休みが終わり大学の講義が再開した。
一〇日ほどは必修科目を聴きに行ったが面白くも何ともなく行くのを辞めてしまった。
そういう規則正しい生活が出来なくなってしまってた。
ただ、そのとき久しぶりと声を掛けた女の子がいた。誰だか判らなかった。
曜日の感覚も無くなって、ごろごろ。一〇キロぐらい太ったかも知れない。十一月の連休前に、また、あいつはお金を借りてきてくれといった。
「あのオカマの所へは行きたくない」
すると簡単にあいつは返事した。
「じゃ行かなくていいよ、今度は大金なんだ。一〇〇〇万。実家から借りろよ」
あいつは命令した。あいつに嫌われ、あいつを失うことのほうが怖かったのだ。
あいつが煙草を吸ってる横で実家に電話をした。
母さんが出てきて「何で連絡をしなかったの」涙声で責められた。 
「大学でバトミントンのサークルに入ってて、忙しくて電話できなかったのよ」第一の大きな嘘。
 「そのサークルの友人が、交通事故に巻き込まれちゃって、大変なの」第二の大きな嘘。
 「大切な友人なの」滑らかな舌。
母さんは本当に信じたのかしら。
結局、明日三〇〇万をあたしの口座に振り込んでくれることになった。
 「残りは、どうにかするから。今度、冬休みには、うちに帰っておいで」
本当に泣いた。
「少ないけれど最高の演技だ」
あいつは嗤いながらいった。
あとで知ったんだけれど、三〇〇万は父さんが貯金してた将来のあたしのための結婚資金だった。
全額、翌日、あいつに渡した。
五〇万、あいつは「お前が使えよ」といったのだ。変な情け。抱いたあと消えた。
十二月になっても、あいつは帰ってこなかった。
 そのあいだ生理が停まった。あいつの子が出来たと思った。でも検査薬も買わず病院も行かなかった。
なぜかって、そうじゃないのが恐かったから。あいつの一部がなかにいることを信じたかった。それが愛の証拠って。
 しかし全然連絡がなかった。さすがに不審に思った。
あいつの携帯に電話をしても「お客様の御都合により御連絡することは出来ません」。
あいつが所属してるといってた「宝石デザイン事務所」に電話した。
あいつのことで、といったら不機嫌になった男が吐き捨てるようにいった。
 「使い込みで半年前にくびにしたよ、あいつはどうしようもない奴だよ、あんたも気をつけろよ」
黙って電話を切った。
歌舞伎町の事務所。
そして、あのオカマの所。
どちらも「現在使われておりません」。
行ってみるとガラス窓には「テナント募集」。
その募集してる別々の不動産に電話すると「夜逃げ、夜逃げ」と同じように怒鳴った。
もう何の手掛かりもなかった。あたし名義の借金が残った。母さんのを入れると、計五〇〇万円を越えていた。
あいつに会う前、新聞や雑誌やテレビで悪質なキャッチセールスに引っかかった人たちの特集を読んでた。
何て愚かで情けない。
そう思ってたのに、その道を見事に忠実にたどってた。行き着くところまで行ってた。
そんな自分が信じられなかった。でも親にも誰にも相談できなかった。
凡てを壊したくなった。
太宰さんに罪はないけど、文庫をバラバラに破いた。
部屋のなかのものを全部放り投げた。
あいつのCDを机の角で一枚づつ丁寧に壊していった。
十二月半ば、サラ金業者が家に来た。電話が何度も鳴る。激しくドアを叩く、蹴る。怒鳴る。部屋の隅で震えてた。
おなかの赤ちゃんだけが無邪気に育ってた。
 「父さんを捜すからね」
 自分にいい聞かせるように、騙されたことが嘘でありますようにって願いを込めてクサイ文句を呟いてた。
一段とサラ金業者の催促が激しくなった。
子供を守るため、ここから離れることを決意した。

 母親の立ち会いのもとで管理人が娘の部屋を開けた。
開けた途端、饐えた悪臭がした。
玄関の入り口にある箱のなかで林檎がどろどろに腐敗していた。
室内はめちゃくちゃだった。
これは、私は絶句した。もちろん、こういう現場は初めてだった。
私は足がすくんだ。これは事件だ。
そう思い私は、頭を抱え混乱し泣き叫んでいる母親の肩を抱きかかえながら、携帯で所長に指示を仰いだ。
 「絶対触るな、警察を呼べ、俺も行く」
 その声を聞いて、少し心に余裕が生まれ、私は室内を見渡した。
部屋の散乱は嵐が通り過ぎたようだった。
私の足許に破れた紙が落ちているのに気がついた。
あとで知ったのだが、太宰治の「晩年」の最初の頁だった。
それを手にした私は思わずポケットに入れた。現場保存の原則を破った。文庫本が至るところで破られ、またCDの破片が散乱していた。
私は急いで携帯で何枚か写真を撮った。
その時、所長よりも早く警察が到着し、私たちは現場から遠ざけられた。

手元にはあいつが、お情けで渡した五〇万円の残り半分にも満たないお金。それと二〇点あまりの宝石。
手当たり次第下着や厚手のセーターを大きめの旅行鞄、それはあいつと新婚旅行を夢見てた頃のもの、それに突っ込んで強くて寒い雨が降る明け方、そっと抜け出した。
親が来たときのためにメモを残した。
 「こわしてごめんなさい。さがさないでください」。
でもどこへ行けばいいのか判らなかった。
東京には頼れる人どころか知り合いがいなかった。
とにかく外へ出たかった。
あいつの体臭が染みついた部屋に居られなかった。
そのとき夏休み直後に大学へ行ったときに優しく声を掛けてくれた学生を思いだした。品川の大学へ向かった。しかし大学は閑散。あの彼女の姿を捜したが見当たらなかった。 
品川駅から上野駅に向かった。上野駅は田舎へ帰る列車の発着駅がある。
実家のある故郷へ向かう電車に乗ったの。
でもそういう状態で親の許へは帰れないでしょ。
だから途中の無人駅で降りた。
駅に降り立つと十二月半ばの寒さ。
黒のぺらぺらのジャケットにこたえた。
息も白いし。
この時初めて死んじゃおうかなって思った。
もう少しすれば雪が降る。
そうすれば当分死体は見つからないだろうって。
旅行鞄から厚着のセーターを取り出して着た。それから舗装された山道を登っていった。
歩いたよ。寒くて、寒くて、がむしゃらに歩いた。三時間ほど歩いた。
ふと景色に気がついて立ち止まった。ずいぶん高い崖まで来てた。
そこからは暗い針葉樹の山々、山の上の方は雪が白く光ってた、
それと、まだ雪がない剥き出しのまんまのゲレンデ、まだ動いていないリフト、それから谷底にへばりついた温泉街、白い湯気が何本も立っていて、箱庭みたい。
規模は小さいけど、あたしの田舎と同じような世界が拡がってた。
人生の最期に、こんな風景を見るとは思わなかった。
崖にあるガードレールの外側に寄りかかってボッーと下界を眺めてた。
車が一台二台通ってたけれど、あたしの存在に気がつかなかったのか、無視したのか。それとも幽霊かと思ったのかも知れない。
幽霊よりも存在感がなかったんじゃないかしら。
 太陽がドボンと落ちた。冷たい闇が襲ってきた。
下界の小さな温泉街の光が白く輝いてる。
上を見上げると満天の星。
流れ星が何度も横切ってた。
 あいつが、ここに突然現れますように。
 死んでも、この子だけは助けて下さい。
 ほかに願うものがなかった。
あいつから貰ったり買ったりした宝石を鞄から取り出した。
流れ星が見えるたびに、思いっきり温泉街に向けて投げた。
届くわけが無く、谷底に落ちてった。
投げたとき、宝石が光った。綺麗だった。
 何で投げたかって。どうしてかな。
あいつに対してその時には、もう怒りはなかったし、宝石がもったいないと思わなかったし。わかんない。
 全部投げ終わったあとで、まだ夜空をみてた。
でもね、だんだん寒くなって、おなかがすいてきて、頭も身体も痺れてきて、ぼんやりして。目の前の星の世界が、まるで生き物みたいにぐちゃぐちゃと蠢きはじめてて、気持ち悪かった、ああ、これで死ぬんだって思った。
 そのとき、おなかにもの凄い激痛が走ったの。
腸のあたりにフォークを突き刺してグルグル回してる感じ。
何度も何度も。あいつの子供が苦しんでる。死にたくないって叫んでる。間違ったことをしてる。
死んじゃいけないって思った。
でも痛みはさらにひどくなって、泣き叫んだ。
あまりにも痛くて、おなかを押さえながら、転がるように崖から落ちてった。それを別のあたしが上の方から見てた。不思議だった。
幽体離脱ってのは、こういうんだって。
 あ、でも、今、前にも同じことを経験したことを思い出したよ。うん幽体離脱ってやつ。
 たしかね、小学校五年生の秋、父さんに連れられて群馬の山でキノコ狩りをしたことがあるの。
あたしたちは、ほとんど日の入らない森の山へ登っていったの。
涼しい風が吹いていた。
山の南の斜面に、二日前に降った雨のおかげで、これでもかっていうぐらいキノコが生えていた。
父さんは教えてくれた。
ハナイグチ、ヤマイグチ、ヒラタケ、ナラタケ、クリタケ、ムラサキシメジ。今いったキノコ知ってますか。
シメジぐらい。
おいしいわよ、ほかのキノコも。今度行くといいわ。父さんに頼んでみるから。
 ああ、それでね、キノコがビニール袋一杯になるほど夢中になって、セーターとジーパンが葉っぱの露と汗で濡れてしまっても、キノコを捜し回ってるうちに父さんとはぐれてしまったの。
 「あんまり遠くに行くなよ、離れちゃ駄目だよ」
 そういわれていたのに、あたりを見渡しても父さんも誰もいなかった。
独り。ひとりぼっちは厭。
壁のような斜面がそびえてて、立ち尽くしてた。
大声で「父さん」って叫ぼうとしても声が出なかった。
息さえ出来なくなっちゃった。今でいう過呼吸症候群。
足が滑った。体が軽かったせいか飛ぶように崖下の笹原に落ちたらしい。らしいっていうのは気絶してたの。
病院で気がつくまで記憶が飛んでる。
でも意識を失う前、身体が見えない大きな手に掴まえられたのを確かに見たの。それで助けられた。
そのあと、父さんに大きな手の話をしたの、そしたら最初、夢を見てたんだろって笑ってたけど、何度もいうと頭を打ったんじゃないかって心配した。あいつに話したら「夢だろ」の一言だった。ま、誰にいっても信じてくれない。
ほら、あなたも信じていないでしょう。
 その時と同じ手が今度も救ってくれたの。
柔らかな手。
包まれるようにして意識がなくなった。
あとで聞いた話だと崖の急斜面に生えてた笹の群生がクッションの役割を果たしたの。
子供の時と同じ。
それと心労で相当痩せてたのが助かった理由なんだって。
嗤っちゃうよね。
更に嗤っちゃうのは落ちたところの直ぐ近くに民宿があってね、もの凄い悲鳴を聞いて、その宿の人が駆けつけてくれたんだって。
死のうとしてたのに助けを呼ぶ。おかしいでしょ。
結局、擦り傷と大腿骨骨折だけ。
痛かった。ま、痛いのは、生きてる証拠だよね。
目を覚ましたら鼻にツーンと消毒薬の臭い。
白い天井。病室だった。
死んじゃいなかった。
ベッドのなかのあたしは人の気配を感じて顔を横に向けたの。
父さんがいた。
身動きもしないで、あたしの顔を見つめてた。
半年以上、会わなかったけれど随分老けた感じだった。
家を出るのに一番反対したのが父さん。
怒鳴られると思った。思わず目をそらした。
父さんは何も言わずに立ち上がった。
そして部屋の隅にあるサイドテーブルの上にあった小さめの林檎を小さなナイフで不器用に剥き出した。
束の間、あたしの存在なんか無いように父さんは一心不乱に林檎を剥いてた。林檎の甘酸っぱい香りが、あたしの所まで匂ってきた。切ない香りだった。
父さんは八分の一に切って、何も言わずに枕元に来て、あたしに差し出した。布団から手を出して黙って受け取った。
林檎の表面はガタガタで所々赤い皮がくっついてた。
口に入れた。
囓った途端、大声で泣いてた。
死んだら味わえなかったんだ。
目の前で林檎を剥いてくれた人の心に酷いことをしてしまったのだ。
天井を見てた父さんは何も言わずに外へ出ていった。
父さんがいなくなった部屋は、恐ろしいほどの静けさが襲ってきた。
「助けて」っ泣き叫んだ。
父さんが「どうした」って飛び込んできた。
 そうそう、子供の件を言い忘れたわ。実は想像妊娠だったの。
あいつの子供を本当に欲しかったの。それが行くところまでいっちゃった。でも、きっと頭ん中じゃなくて身体の一つ一つの細胞が、あいつを愛してて造り上げたんじゃないかなと絶対、思った。
 大学のほうは来年の三月まで休学、まだ辞める気はない、でも東京に行くのは、まだ勘弁って状態。
そりゃ確かに騙されたし、心に傷を負わなかったとは嘘になるし。ほんとはね、今までこういう話をする人がいなくて苦しかったの、ほんと今日は、すっきりした。
ありがとうさんでした。
でも本当に、ただ単に騙されただけだったのかっていうと、毎晩毎晩、独りになると考えちゃうの。
考えても、答えが出ないんだけど考えちゃうの。

私は必死に担当の刑事から訊きだした。
男の影があったらしい。
残された手帳には失踪の一月以上前から毎日「辻間修、帰らず」と記されていた。
また本人自筆の「こわしてごめんなさい。さがさないでください」というメモが残されていたという。
だが女子大生の失踪は刑事事件にはならなかった。
扉の外のへこみや傷はサラ金業者が創ったものだが、室内の破壊は本人自らがしたと警察は判断したのだ。
結局、捜索願だけが受理された。彼女は単なる行方不明者の一人として埋没した。
警察はあてにならない、あなたに娘を捜して欲しい、文字通り手をさしのべて母親は訴えた。
私はその両手を思わず握った。
柔らかな手だった。
何故かときくとあなたの目が誠実だからと答えた。
この言葉はのちの私の生き方を決めた。
私は彼女から数枚の娘の写真を受け取った。
女子大生は目の前にいる母親の目鼻立ちにそっくりだった。
別の一枚は親子三人で写っていた。幸福な家庭があった。この家庭が一瞬にして壊れたのだ。
彼女を捜さなくては。
警察から戻ってきた彼女の持ち物を母親から借りて精査した。
貯金通帳に母は娘からの電話で三〇〇万円振り込んでいたが、翌日には全額下ろされていた。
また私は太宰治全集を購入し、何かヒントになるものはないかと読んだ。
休日を使い青森や富士山や三鷹へ行き聞き込みを行った。
しかし彼女が来たという痕跡は全くなかった。
彼女の部屋に宝石デザイン事務所のパンフレットがあった。その事務所に「辻間修」が短期間だがアルバイトをしていたことを掴んだ。
しかし、そこに残されていた彼の履歴書は住所も何もかも出鱈目だった。
そして彼は事務所の金を持ち逃げして消えていた。
その後の行方は判らなかった。
駆け出しの私は雑用に追われ、さらに所長から浮気や身許調査などのほかの仕事を任され彼女の願いに集中することは出来なくなっていた。
それはすべて言い訳だ。半年後、依頼人は心労で脳溢血で死去、追いかけるように夫も亡くなった。
この仕事を辞めたいと私は所長に訴えた。
しかし所長は吐き捨てるようにいった。
 「ここで仕事を辞めたら、ちんたらしていた昔のおまえと何も変わらんぞ、今辞めれば更に後悔するぞ」
 絶対に真相を突き止めたかった私は何とか立ち直った。
翌年、所長の秘書で私を支えてくれた女性と結婚した。
娘が産まれたとき、私はあの娘を捜して欲しいと訴えた母親の目を完全に理解した。
数年後、一人の男の逮捕が報じられていた。
何人もの女を手玉に取ってきたジゴロだった。
数日後、少しばかり身体が空いていた私は、昼休み弁当を食べ終えたあと、事務所で数人の部下と共にテレビをぼんやりと見ていた。
テレビ各局のワイドショーは大々的に、この男の特集をしていた。
私はほかに重要な社会的問題があるだろうと、心のなかで舌打ちをしながら、明日会う予定の依頼者についての書類に目を通していた。
このときレポーターの言葉を聞き逃さなかった。
男は十幾つもの偽名を使っていたが、その一つに「辻間修」があったのだ。あの女子大生の部屋にあった手帳に毎日書き込まれていた男の名前だ。
私は急遽、翌日の予定を部下に任せた。
その日のうちに警察庁や法務関係の友人に頼み込み、捜査資料を手に入れた。しかし女子大生の名前や手掛かりになるような記述は一切無かった。
刑が確定したあと私は「辻間修」との面会を望んだ。
何とか理由を付けて、許可が下りると刑務所に走った。
硝子越しの男は見知らぬ私を見て不審そうな顔をした。
彼は顔写真よりも鷲鼻だった。私は自分が探偵だと名乗った。
「太宰治を知っていますか」
そして男に女子大生の写真と破れた文庫本「晩年」の最初の頁を見せた。
 「この女性を知っていますか、行方不明なのです」
男は数分俯いて黙っていた。
看守は私たちの長い沈黙を睨むように見ていた。
翌日、彼の国選弁護人から理由にならない理由から抗議を受けた。
今後、一切面会をお断りします。
男は何かを知っているのだ。確信した私はしつこく何度も面会を申し込んだ。だが面会は許されず、半年後「辻間修」は刑務所のなかで自殺を図った。
女子大生についてのすべての手掛かりを失った。
私は初めての仕事を完結できなかった。
この後悔は私の仕事へのバネとなった。
その分、女子大生失踪のファイルは次第に棚の奥へと移動していった。
そのあいだ私は所長代理となった。さらに事務所が手狭となり、広い事務所へ引っ越しの際、ファイルは段ボールのひとつに詰められ、私の家の外にある倉庫に放り込まれた。そして時間がこの事件の記憶をゆっくりと削っていった。

 彼女を「発見」したのは、失踪してから三十年後の春だった。それは偶然だった。
私は音信不通になってしまった「恩師」を捜して欲しいという教え子の依頼を受けていた。
すぐに群馬県のある老人ホームで車椅子に乗った「恩師」を発見した。
矍鑠とした老人は自分から世間と別れを告げたのだといった。
 「本当は山中に庵でも結びたいのだが。このような身体ではね」
 彼は苦笑いをした。
 「所在を教えないでくれ。そういう人生もある」
彼は静かに断言した。私にはよく分かった。
私は老人に依頼人の手紙を渡すことをやめた。依頼人には八方手を尽くしたが見つからなかったと報告すると決めた。
そして健康なうちに庵でも作り、世間と隔絶した余生を送るかと一瞬本気で考えた。
しかし東京へ戻ればまだ雑務が残っている。
私には、そういう生き方は無理だと諦めた。ただ「引退」という文字が浮かんで脳裏から離れなかった。
その時、通りがかった部屋のなかから女の声がした。綺麗で澄んだ声だった。私はその室内を覗いた。
窓際のベッドに髪が真白となった老女がひとり窓の外を見ながらゆっくりと、そして抑揚無く喋っていた。
部屋には誰もいない。
夕日が彼女の横顔を照らしていた。
 「でもそういう状態で親の許へは帰れないでしょ」
 老女の語りに病室の入り口に立っていた私は聴きいった。
小柄な彼女は私の存在に気がつかず語り続けている。
 「まだ、おられたのか」
 さきほどの「恩師」が車椅子で通りかかって私に声を掛けた。
集中して聴いていた私は少し驚いた。
既に彼女が見ている窓の外は暗闇となっていたのだ。
 「大学のほうは来年の三月まで休学、まだ辞める気はない、でも東京に行くのは、まだ勘弁って状態。」 
 「恩師」が呟いた。
 「彼女は、三十年前に崖から転落して近くの旅館のひとに助けられたのだそうですよ。だが、それからずっと夕方になると、繰り返し同じ話をしている。彼女は永遠のなかにいる」
私は重要なことに気がついた。似ている。 
「まだ足が痛くて立ち上がれないの。ベッドの上でごめんなさいね。大腿骨を骨折しちゃって。歩けないのよ。あと数週間入院していないと駄目なんだって。何でかって。馬鹿なことしちゃったの。それより、もう一回あいつの写真見せて」
彼女は中空に両手をさしのべた。
このとき娘を捜してと救いを求めた、あの母親の姿と完全に重なり合った。あの母親の柔らかな手の感触が蘇った。
 私は思わず一歩、二歩と踏み出していた。


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