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大原幽学
42、人の情け‐2

3、人の情け−3

  旅籠でのしばしの休息でトセは元気を取り戻したが、老夫婦の疲労状態は極限に達していて、一日も早く津に戻らねばならないのだが、孝次郎の奔走でも、土山宿に駕籠はあれども担ぎ手がいないことが分かって、駕籠は断念せざるを得なかった。

駕籠がないとなると山越えにはかなり厳しいものになる。

「雨が止んでいる間に峠を越えるからね」

左門は、なまじ茶菓の接待を受けて休息したたために疲労が頂点に達している三人を促して立ち上がった。

左門と主膳が、熱田を夜明けに出て夕暮れの鈴鹿の峠までの二十里余の道のりを飛ぶように歩いたのと違って、女連れで老人を背負っての山越えの大変さはかなりの難事であることだけは間違いない。

代金をという左門の申し出を、孝次郎と志津が笑顔で断った。

「左門さん。くれぐれもお金と咲だけは大切にしてくださいよ」

二人の善意と志津の忠告を受けた左門は、トセと伝蔵夫婦共々に深々と頭を下げて松阪屋を後にした。

「津の帰りにまた寄りな」

佐助が名残り惜しげに手を振って別れを告げている。

伝蔵を背負って振り向いた左門が、孝次郎、志津、佐助、女中らに大きく片手を振ってから身体をひねって、鈴鹿越えに向かって歩を進めた。背の伝蔵はもう語りかけることもなく、左門が歩きだしてすぐ眠りについていた。

ただ、背になる人の眠りはずっしりと重さを増して、背負う者の疲れを誘うのだ。左
門もトセも黙して語らず、ただひたすらに秋風の中で汗にまみれつつ上りの山道を一歩一歩歩みを進めた。無言で歩む左門ではあったが、絶えずトセのおぼつかない足取りや荒い呼吸に気遣って、自分の歩みを調整してゆるめたり早めたりして先を歩いた。

宿場から樹林に包まれたなだらかな山道を一里ほど登ると、鬱蒼とした森に包まれた田村神社が左門の視界に入って来た。そこで、少し歩みをゆるめて背で眠っている伝蔵を気にしてみると、かすかなイビキが聞こえてくる。

「少し休むかね?」

左門が声をかけると、トセが「はい」と答えて立ち止まり、汗を拭ってから腰に下げ
た竹筒を取り出して背の老母に優しく話しかけながら水を与え、自分も一口飲むと、「休むと動けなくなりますから」と左門に言い、すぐに先に立って、雨曇の下で樹林枝
葉に包まれてさらに暗くなった山道を歩き出した。

老母を背負い、その重みによろめきながらも確実に一歩一歩の歩みを進めて行く女の後ろ姿を見つめながら左門は、トセのという女の凄まじい生きざまを見る思いがした。

幼くして邪魔子として養女に出され、その家からも口減らしで六歳の時に捨てられた
幼児期の孤独感と飢えの恐怖は、幼い時から身体にしみ付いて離れないに違いない。その絶望的で救いようのない幼いトセを拾ってくれたのが、病弱で身の回りの世話をしてくれる下女の役割の子供を探し求めていたのが伝蔵夫婦だった。

トセという養女を得た伝蔵夫婦は、朝から晩まで便利っ子としてのトセをこき使った
のだが、トセもまた捨てられまいとして必死に働いて夫婦に尽くして恩義に報いた。その結果、いつしかトセと伝蔵夫婦との間には実の親子以上の情が通うようになり、トセはただ老夫婦のために生きる存在になりきっている……これが左門の推察だった。

それがまた、生家を勘当され、いままた仮の保護者と慕った田島主膳とも別れて天涯孤独の身となった左門の境遇と重なって、トセを哀れと思う気持ちを深めるのだ。
やがて、息も絶え絶えに近江から伊勢への国境になる峠に辿りつくと、山深い街道の左右に、山崎屋、井筒屋、伊勢屋、坂井屋、鉄屋、松葉屋などの茶屋が立ち並び、それぞれに趣向をこらした幟をはためかせて客を呼び、行き交う客を招き入れて賑わっていた。

「さあ、休むぞ」

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左門はためらわずに坂井屋と看板のある店に入って、休憩する旅人の足元を「ごめんなさいよ」と声を掛けながら縫って奥まった席に進み、腰を屈めて背上で眠り続けている伝蔵に声をかけて、空いている腰台の上に下ろして座らせようとしたが、伝蔵は左門の背中にしがみついたまま降りようともせず、イビキをかいて起きる気配もない。

隣の席で、くし刺しの団子をかじりながら茶を飲んでいた職人風の男が、伝蔵の顔を覗き込み、眉をひそめて左門に声をかけた。

「その爺さん、死にかける顔色だぜ」

左門の後に続いたトセが、その声であわてて自分の背から老母を降ろして駆け寄り、伝蔵の顔を覗き込み、「お父っつあん、死んじゃダメだよ!」と叫んで、左門の背から義父を抱え降ろそうとしたが、伝蔵の手が左門の肩にしがみついて中々離れない。

誰が聞き損なったか、死にそうだ……が、死人だ、に変わって、まだ伝蔵は生きているのに死人扱いにされてしまった。 

「死人だとよ」

「縁起でもない。誰だ疫病神は?」

「お伊勢参りの帰りだにケチが付きやがっただ」

店内が大騒ぎになり、店の女が必死で混乱を静めようとするが、異変を知った物見客が店内を覗き見たり入りこんだり……台の上に横たわった伝蔵に抱きついて泣きわめく老婆まで夫が死んだと錯覚をしたらしい。困惑した表情のトセ、腕組みをして為す術もなく思案する左門、おろおろする接客係の女中、あわてて調理場から出て来て事情が飲み込めずに呆然と立ち尽くす調理方の男、それを囲む男女の群れで騒ぎは大きくなるばかりだ。

そこに外から現れた虚無僧が一瞥して状況を飲み込んだらしく、顔に深編笠を被ったままで尺八で茶屋の柱を叩いて大きな音を立てて注目浴びると、野太い声で怒鳴った。

「どうやら見せ物ではなさそうだ。困った人がいなさるのに邪魔をされると迷惑になる
ばかりじゃ。この場の払いはわしが持つ。どなた様もさっさと店を出なされ!」

これがまた山々に響くような大音声だから、驚いた客は我先にと店に出て、店内には関係者だけが残った。

「お帰りなさい」

調理方の男が頭を下げると、虚無僧が深編笠を脱ぎながら左門に声を掛けた。

「大原さま。どうなさいました?」

見ると、武士上がりの虚無僧としか見えない坂井屋の長兵衛がそこに立っている。
左門から事情を聞いた長兵衛の決断は早かった。

「孝次郎さんにも主膳さまにも恩義と借りがあるこの長兵衛、このぐらいのお手伝いはさせて頂きます。聞けば、こちらのトセさんの孝養によって、お父上も念願の西国めぐりを終えたとなれば、もう、どこで死んでも思い残すことはないでしょう。この顔色だと、今から麓に駆けて医者を呼んだとしても臨終には間に合いすまい。ならば、ここで、おだやかな最期を遂げさせて上げるのも親孝行というもの……幸か不幸か、これが私の店であったのも何かのご縁でしょうな。この伝蔵さんとやらを息のあるうちに津まで運ぶのも大変なことだし、長旅から帰っていきなりの死では村の人にも迷惑をかけるばかり。ここは、旅先で倒れたと考えるのが得策というもの。この重病人は、この長兵衛が責任をもってお引き受けけしますが、いかがですかな?」

「私は異論がありませんが、当事者のトセと母さまはいかがかな?」

トセがきっぱりと答えた。

「お父つあんは、どんなことがあっても安濃の連部村まで連れて帰ります」

それで左門も腹を決めた。

「よし、ならば今からは下り道だ。まず一気に坂下宿を抜けて関まで降りるぞ」

長兵衛が驚いた顔で諌めた。

「それは無茶だ。距離はここから坂下を抜けて関までたった二里だが、背に人を担いでの険阻な山道での急な下り坂は膝に来るから速くは歩けませぬぞ。悪いことは言わぬ。

病人はここに置いて行きなされ」

トセは頭を下げて長兵衛の好意に礼を言い、左門にも「お願いします」と一言声をか
けると、老母を背負ってさっさと坂井屋の店を出て先を行く。やむなく左門も長兵衛に手伝ってもらって伝蔵を背負うと、あわててトセの後を追った。

そこからの山道の苦労は言うまでもなく苦難に満ちたものだった。急峻な傾斜では先に降りた左門が、トセの手を引いて安全に坂を下る手助けをしながら山道を下った。

もう、こうなれば安濃の地まで行くしかない。

左門は、夕暮れまでにどこまで行けるか? と、考えながら山道を下っていた。

44、人の情け‐4


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