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坂本龍馬
3、 材木小屋


第三章 龍馬受難

 4、 生い立ち


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 4、生い立ち

 龍馬は遠い彼方から呼び戻されたような感覚で仮死状態からかすかに甦り、苦痛の中で生死の狭間をさ迷っていた。
「この痛みは地獄の責め苦なのか、生ある証しなのか?」
 これが判然としない。まだ命ある世に生きながらえていたのなら・・・そう考えると、どんな苦痛や困難にも耐えて生き抜かねばならない。今、志半ばで死ぬのは龍馬の望むところではない。この国を大きく変えるために立ち上がった以上はどんな苦痛に耐えても生き抜いて目的を達成しなければならないのだ。だが、その執念で傷の痛みを和らげようと意識しても無駄だった。痛みは間断なく龍馬を襲ってくる。
「これは地獄か?」
 生きている実感を得るべく材木の上で意識してもがいたが、冷えた身体はただ痛むだけで微動だにしない。そうなるとやはりこの身はあの世に召されたとも思えてくる。現世に未練が強い者は死しても怨念が残り、身は滅びても霊魂はこの世に残るという説もある。ならば死せるとも己の生き様から省みても霊魂をこの世に留めて目的を果たさねばならない。どうせ、極楽には無縁の身だ。地獄に墜ちて最初の責めがこの激痛なら今後の試練の第一歩と受け止めて覚悟せねばなるまい。
 だが、地獄で仏という言葉もある。自分がこの苦痛で気を失う前に、乾いた喉に水を流してくれたのは何者なのか? しかも冷えた体に布まで掛けてくれた。すでに薩摩屋敷に走っている三吉慎蔵の行為ではないのは確かだから、或いは青鬼赤鬼が責め苦を与える前に甘い罠を仕掛けたやも知れぬ。
 幼児期から子供時代にかけては「寝しょんべん垂れ」と子供仲間に苛められ、藩校にも通わぬためにまともな字も書けず学問もなく、けんかに負けては「弱虫!」と姉の乙女に棒切れで叩かれた日々もある。机に座らされて嫌な書物を読まされ筆で字を書かされても「覚えが悪い」と馬鹿にされた日々も今は懐かしい。そこから抜け出した切っ掛けについては、自分では分かっているつもりだが、疑問があるのも事実だった。
 背が高く茫洋とした外見から「坂本のでくの棒」と言われ続けたこの身が、いつからか身分制度の歴然とし旧態依然の土佐から飛び出て世界で孤立するこの日本を変えようとしている。この大きな変わり身の謎を誰が解き明かせるというのか? 十九歳で江戸に出て自由な空気を吸い幾多の人材に遭遇したことが、この急激な変貌を呼び込んだのも否定はしない。しかも、この自分が周囲の期待を浴びている。これは大きな誤算だった。平凡で幸せな暮らしが一番いいのは当たり前のことだ。

 死を迎えた人は、魂が肉体から離れる瞬時の間に、幼い日々から死に至るまでの出来事を走馬灯が早廻りするように、目まぐるしく思い浮かべると聞いたことがある。
 父の名は坂本八平直足で母は幸、龍馬を生んだとき母は三十八歳とかなり遅い出産だった。そのとき兄の権平直方は二十歳、長姉の千鶴は十九歳、次姉のお栄が六歳、三姉の乙女が四歳で、龍馬の名は、母が龍馬懐妊の折に雲竜の夢を見たことから名付けられたと聞いたが、その真偽のほどは母の早逝で質す間がなかったのが惜しまれる。
 龍馬を生んだ母は高齢出産ゆえに乳が出ず、坂本家では龍馬の乳母として近隣の農家の娘で隣村に嫁ぎ、妊娠中の農作業で転倒して死産して悲嘆にくれていた女を雇ったと聞く。
 龍馬の養育は、母が病弱だったので、坂本家で下働きをしていた遠縁のおたべと、姉達に任されていた。おたべは、文字も読めず世間的な常識もなかったが龍馬に対する愛情だけは本物だった。病いの床に伏せがちだった母や、気まぐれに溺愛と苛めを繰り返す姉たちと違って、おたべはただ一筋に龍馬の成長に尽くし、その愛情は母の幸が十歳の龍馬を残して病死してからも変わらなかった。龍馬は母の死後、おたべの愛情と次姉乙女の訓育によって成長し夜尿症も徐々になくなっていた。
「あの故郷の山や川はよかった・・・」
 龍馬が育った家のすぐ目の前に鏡川の清流が流れ、もの心ついた時から姉の乙女に連れられて小魚や沢蟹取りに熱中していたし、家から見える小高い筆山の丘陵を駆け巡り自然に親しんでのびのびと育っている。龍馬の生まれた高知城下の上町にある坂本家は、母屋のほかに離れ座敷や土蔵も幾棟か建ち並ぶ広い敷地をもつ名家で郷士とはいえ、なまじな武士の暮らしよりははるかに裕福だった。
 十二歳になった龍馬は、父の勧めで学問を始めるべく地元小高坂の楠山塾という学問所に通ったが、もの覚えが悪く友人も出来ず、どこで知られたのか「寝小便たれ」などと言われて苛められ、いつも泣いて帰っては姉の乙女に叱られたものだった。そこでは何も得ることなく、次に志和塾というところに通ったが、教授方にもバカにされる始末で休みも多く、「もう来んでいい」と断られて退塾させられてしまった。
 それでも、四歳上の姉の乙女が父以上に熱心に素読や剣術を仕込んでくれたおかげで、龍馬の心は折れなかった。
 十四歳になった龍馬は自分から父に申し出て、鏡川べりにある築屋敷の日根野弁治吉善という三十半ばの小栗流剣術の達人の道場に通わせてもらうことになった。日根野道場には身分や格式に囚われず誰とでも稽古が出来る自由な空気が流れていて、剣術に柔術や拳法までを取り入れた総合的な剣法で、理論より実戦を目指していることも龍馬の肌に合ったらしく、この日根野道場に通うようになってからは寝小便が完治した。
 今にして思うと、この日根野道場に通わなかったら、身心ともに人間的な成長もなく今の自分はなかった・・・龍馬はそう思うと、角ばった真面目顔でよく冗談を言った恩師の日根野弁治吉善師が無性に懐かしい。だが、稽古はきつかった。
 小栗流は、開祖の小栗正信は徳川家の旗本で柳生石舟斎の高弟で新陰流剣術の達人だったが、大坂夏の陣に出陣した折に乱戦の中、敵将と組討になり格闘の末に鎧通しを用いて敵を倒した経験から、新陰流同門の駿河鶯之助という友人と共に組討の研究をして、小栗流和兵法を開いたと伝えられている。その小栗正信の弟子の朝比奈某という剣士が土佐藩士だったことにより、土佐藩の指南役となり藩内の主流として伝えられてきた、と龍馬は師から聞いている。
 日根野道場に通うこと五年、師から「小栗流和兵法事目録」を与えられた時の感激は今でも忘れられない。龍馬が生まれて初めて自信らしきものを感じたのは、間違いなくこの目録を頂いた嘉永六年三月、十九の春だった。



5、 龍馬の恋


添付ファイル: filekaiundou.jp_ryoma_018.jpg [詳細] filekaiundou.jp_ryoma_017.jpg [詳細]

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