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先生方の作品集
3、緑色の香炉

第四章 廃屋の冒険

加納一朗

 私たちは家を出た。空に月はなく、星が満天にきらめいている。
「すばらしい星空だ……」
 ホック氏はちらりと虚空を仰いだが、ふんと鼻を鳴らした。
「星が現実の事件となんの関係がある?ぼくは現実に関係のないものはおぼえないこ  とにしているんだ。それでなくてさえ、ぼくの頭にはおぼえておかなければならないも
のが次々に流入してくるんでね」
「東洋にはむろん日本にも古来から、天地の自然を受容する感覚があって、月や星の運
行も雪や花もすべて日常の生活に取入れている。イギリス人にだって、そういう感覚は
あるんだろう?」
「それはあるさ。日本人ほどではないがね。だが、ぼくには無縁だ。いつだったかぼくの友人が、ぼくが太陽系について知識がゼロなのに驚いていたが、知る必要もないものは知る必要がないのだ。月が地球をまわっていようとどうしようとぼくには関係がな い」
「すると、きみは満天の星に興趣を湧かしたことはないのかね。悠久の銀河の流れ、す
ばる……いや、プレアデス星団の神秘さにも」
「なんだね、それは?」
 私はびっくりしてしまった。
「では、きみが知りたい知識はなんだね?」
「化学。それに犯罪のすべて……」
 と、ホック氏は答えた。
「それだけ?」
「つけ加えれば犯罪捜査上に必要な知識かな。地質、毒物、凶器、痕跡などを見分けることのできる知識だよ」
 私たちは話しながら暗い道を歩いた。目的地が近づくにつれて次第に話は途絶え勝ちになった。
 警部は笄町に着くと仙吉の描いた地図を出してながめた。
「ひでえ地図だ。西も東もわかりやしねえ」
 ぶつぶついっていたが、それでも見当がついたとみえて歩き出した。私たちはやがて一軒のかなりの庭のある暗い家の前に出た。
「ここですな……」
 私たちは丈高い生垣の間からなかをのぞいた。ここも以前は武家屋敷であったもの が、維新以後買手もなく放置されているものの一つであるらしい。庭はぼうぼうと草が茂り、薄が星明りを受けてゆれていた。
「空家みたいですね。仙吉の地図にまちがいなければここなんだが……」
 門は古びてはいるものの厚い樫の戸は頑丈だった。ホック氏は鞄のなかから小型の手提げ角灯を取り出した。私たちは灯の用意を忘れたの恥じた。ホック氏は万事に周到  であった。さっき、生垣越しにのぞいたかぎりでは母屋に灯の色は見えなかったが、それだけでは無人かどうかはわからない。ホック氏は角灯に灯をともし、門の周辺と地面を調べた。
「門の蝶番に油が差してある。地面は乾いていて足跡はわからないが人の出入りした 形跡がある。油は最近差した新しいものだ。入ってみよう」
 警部が門を押した。閂がかかっているらしく門はわずかに撓んだだけだった。
「内側からあけてきます」
 中条警部は張り切った声でいうと、生垣の竹に足をかけ庭に飛び下りて姿を消した。すぐに閂をはずす音がして門は音もなく開いた。ホック氏が角灯のすべり板を大きくあけて灯を明るくし先頭に立った。私は内側にいた警部とそのあとにしたがった。門内の母屋に通ずる小径は踏みかためられ、ホック氏のいう通り最近人の出入りもあり、長いあいだ放置されていたとは思えなかった。左右の庭の雑草や薄の穂がそよいでゆれるたびに私は何者かがひそんでいるような気がして、あたりに警戒の眼を配った。ここも虫の音がかまびすしく、虫が鳴いているかぎり大丈夫だとは思うのだが、やはり気になるものである。その虫の音は私たちの足音を知って、そのときだけ周辺で止むのだが、通りすぎるとたちまちもとのように復活した。
 玄関の戸にも敷居にも油が差してあって、その黒いしみが垂れているのがわかった。私は警部が戸に手をかけて引き開けようとするとき、手にピストルを握り、安全鍵をはずし異変があったらすぐに撃てるようにした。
 戸は意外に大きい音を立てて開いた。私は戸から二歩下って身構えたが何事もなかったのでほっとした。ホック氏が角灯をさしかけた。鈍い黄色の光のなかに土間と式台と破れ畳が見えた。
「ふむ。足跡がある。ごく最近のだ……」
 破れ畳にはあまりはっきりとはしないがたしかに足跡と思われる跡があった。角灯を近づけてそれを調べていたホック氏がいった。「ここに来たのは二人だね。ひとりは身 長六フィート二インチの大男で外国人であることは断言できる。しかも、ロシア人だ  ね。少年たちが突き止めてくれた人物と同一人だろう。もうひとりは日本人の女性で、男が無理にここに連れこんだのだ。そして、出ていった」
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
 思わず私は声を高くした。
「初歩的なことだよ、ミスター・モト」と、ホック氏はいった。「この破れたタタミは湿気を吸ってぶよぶよになっている。そこについている大きい足跡の歩幅から身長は推定できる。この足跡は十二インチの靴をはいている。それを見てもかなり大きい男だということはわかるだろう。それに、これを見たまえ」
 彼は指先についたものを差出した。
「灰らしいね。煙草の灰だ」
「この灰はロシアのパピローサという――つまり巻煙草だがね。長い吸口のついた独得の煙草の灰だよ。これで大男のロシア人だとわかるだろう。日本にこの種類の煙草は輸入されていないはずだ」
「なるほど。では、もうひとりの人物が日本人の女性であるというのは?」
「ゾーリの跡さ。八インチ四分の一そこそこしかない。こんな可愛いゾーリを履くのは女性で、しかも男の足跡が一歩一歩ついているのに、女性のほうの足跡は無理に引き摺られた跡がある。男が女を女の意志に反して連行したのだ」
 ホック氏は角灯を掲げて廊下を進みはじめた。中条警部と私は油断なく気配に注意しながらホック氏の両脇を固めるようにした。私たちの足許で廊下はぎしぎしと音を立てた。
 破れ放題の襖、唐紙、畳。はげ落ちた壁。ここが打ち捨てられて久しい家であることは確かだ。そして、最近は何者かに利用されていることも――。赤土のついた足跡は右側につらなる三つの小部屋の前を通って、廊下のいちばん奥まった部屋で止っていた。
そこも棧のむきだしになった襖が、ともかくも形だけ入っているといった部屋だった。
 角灯のあかりが化物屋敷のような荒涼とした襖を照らした。中条警部がそれを引きあけた。
 部屋は十畳ほどもあった。もとは客間として使われていたのか床の間もあり、柱の銘木が、まだがっしりとした感じで光を浴びて光った。中条警部がくぐもった声をあげ  た。
 内部は無人だったが人がいた形跡が歴然としていた。私たちの眼をなによりも驚かしたのは床の間の前に投げ捨てられた緋色の帯上げと、散乱している緑色の香炉のふただった。
「これは栄吉の店から紛失したやつですよ。……八つある。盗まれたもの全部ですよ」
 と、警部は数えていった。
 ホック氏は角灯を近づけ、女物の帯上げをみつめた。
「これはなにに使用するものだね?」
「女性の帯――キモノの上に巻く幅広のベルトの付属品だよ」
 彼はなにかをつまみあげ、灯にかざして綿密に検査した。それから立って部屋の隅々まで見まわり、あるところではかび臭い畳をなめんばかりに鼻を近づけ、指でこすったりまた匂いを嗅いだりした。そのあいだに私と警部は散乱していた香炉のふたを拾い集めた。ホック氏が叫んだ。
「血だ」
 角灯の光が照らすその場所に茶褐色のしみが点々とついていた。量は多くなかったが一箇所ではまだ固まりきっていない絵具のようにどろりと溜っているところもあった。
「こりゃ、どうしたんでしょう」
 と、中条警部が声をあげた。この部屋で血なまぐさい事件が生じたことは明らかなように思われた。私はどこかに死体がころがっているような恐怖感に襲われ、思わず光の届かない隅を見やった。ゆれる光によって怪奇な影ができ、そこに魑魅魍魎がうごめ  いているかのような心理を持ったのも、この荒れはてた家のなかでは無理からぬことであった。
 余談ではあるが維新によって武士が禄をはなれると、東京市中では広大な武家地がほとんど空家になるか捨値で売りに出された。しかし、当座は買う者もなく繁栄を誇った屋敷が無残に捨てられていた。それから二十数年が経っても、市中にはこうした荒廃した家がかなりあったのである。
 ホック氏が立上った。角灯の光を下から受けた顔はこれまで見たことのない緊張を示していた。
 彼は部屋を出て廊下を勝手のほうに歩いた。それから戻ってくると私たちに来るようにと合図した。勝手の土間は広く、くずれたかまどのそばに欠けた湯呑みや茶碗の破片がころがって、戸はなくなっており、外から風が吹きこんでいた。
「連れてこられた女はここで拷問かそれに近い行為を受けたが、その女を助けに来た男がいる。男はロシア人を傷つけ、女を救って逃げた。逃げてから約一日というところだね」
 と、ホック氏がいった。
「拷問だって?」
「女性はあの帯の付属品の紐によって縛られていたんだよ。ロシア人は女の髪をつかんでかなり手ひどいことをした。毛根の付着している女の髪が十数本かたまって抜けているのが証拠だ。その髪の油から女はお絹だね。救いに来た男は栄吉だろう。栄吉は刃物でロシア人に切りつけた。傷はたいしたことはない。だが、ひるんだ隙に縛られた女をほどき逃走した。ロシア人は相手が刃物を持っているので追うことを断念し、とりあえず止血してその場を立去った。血がいったんは飛沫いたがそれ以上落ちていないから、止血したと考えていい。栄吉は勝手口から入ってきたんだ。土間に下駄の跡が二種類  ある。二本の歯の一方が深い跡を残しているのが、男の方向をしめしている。一つは歩幅が小さく奥に向ったほうの歯が深い。これは足音を忍ばせて歩いたのだ。もう一つは歩幅が大きく、しかも二本の歯のあとがずっと深い。大きなものをかついで――それはお絹の身体だと思う。そのために深い跡が残って、それは表へ向っている。お絹という女性が痛めつけられて、自力で歩けないほどの状態であったことがわかるね。事件が起ったのは、ロシア人が人力車でここに来たあと、つまり、きのうの午後おそくだ。お絹という女はそのとき、ここに縛られていたのだ」
「すると、お絹はロシア人に誘拐されていたんだね」
「そうだ。そこで問題になるのは香炉のふただ。ロシア人が栄吉の店にわざわざ自分で出向いたのは、誘拐したお絹を責めて香炉のふたがなにか重要なものであることを聞き出したからだ。ロシア人は店にあった香炉のふたを持って、ふたたびここに戻ってき  た。途中、公使館に寄ったのはなぜか――おそらく公使に報告するためだったろう。ロシア人は香炉のふたをお絹に見せて、ふたたび責めたがその最中に栄吉が飛びこんできたのだよ」
「こんな香炉のふたに、一体、どんな重要な秘密がかくされているんだろうね?」
 私は拾い集めたどれもこれも似たような安物のふたをながめた。
「ふたは何個あるね?」
「八個です。紛失した個数と一致します」
 と、中条警部がいった。
「では、その八個は重要なものではないよ」
 と、ホック氏がいった。
「どうして?」
「本当に重要なものなら、危急の際にも持ち去るよ。全部を残して逃げたのは、この八個のふたが重要なものでないことを、お絹も栄吉も知っていたからさ。重要な香炉のふたはべつにあるのだ」
「それは栄吉の店にかい?」
「お絹はロシア人にそういったにちがいない。お絹自身は問題のそれがまだ店にあると思っていたのだろう。だが、本当にあるかどうかはわからない」
「もう一度、徹底的に家探しします」
 と、警部がいった。
「でも、それらしいものはなかったはずだよ。――ほかに探さなかったところがあればべつだがね」
「もし、ここにこれ以上とどまっている理由がないとすれば、これからでも行ってみようじゃないか」
 私は、ホック氏にいいながら、栄吉の店にはかなり見残した箇所があるような気がしてきた。言ってみれば外出する際、かまどの火が消えたのを確かめたくせに、時間がたってみると消したかどうか気になりだすあの心理である。
「あそこには梶原をずっと張りこませてありますので、昨日のまま保存は完璧と存じます」
 と、中条警部はいった。
「ロシア人に殴られた傷はどんな具合だね?」
 警部の部下の気の毒な状況を私は同情をこめてたずねた。すると警部は笑い飛ばし た。
「なあに、いっそう勇気凛々でさあ。梶原の頭の骨は分厚くできてるんです。その分だけ中味が少ないですがね」
 私たち三人はなおも家のなかをくまなく捜索したが、前記以上の発見はなかったので引揚げることにした。この家が利用されたのは単にお絹を拉致して監禁するためだけであったらしい。帰りがけに中条警部は隣り近所を訪ねてこの家のことを聞き出したが、近所はみな離れていて空家としか思っていなかったとのことだった。そうだとすれば強いて女が監禁されていたなどと殊更いうこともないので、外国人をみかけた事実がなかったかどうかを聞くにとどめたが、ふだんでも森閑として通行する人もいないこのあたりでは、その返事もはかばかしくなかった。
 私たちは大通りへ出て霞町の角に馬車屋があるのを見つけ、三人打ち揃って神田へ行くことにした。馬車はひどいガタ馬車だった。幌がこわれていて上らず、走り出すと間もなく私たちは寒くなって襟を掻合わせなければならなかった。
「今度のことをどう思うかね?」
 と、ホック氏が車輪の音に負けまいと声を高くした。
「まだ不明の点も多いが、お絹と栄吉の身になにか起きていることは想像できる。彼  等は文書をどうも背後の何者かに渡していないのではないかね。しかし、どうして依  頼者の命にしたがって男装までして文書を盗みだしたのにそれを渡していないのだろう……」 
「ぼくは近年ヨーロッパに起きた犯罪事件をことごとく暗記しているが、これを分析すると興味ある事実に気づく。犯罪というものはいくつかのパターンに分類されて、表面は変っていても真実はパターンの一つに類別されてしまうのだ。この方法は東洋でも変りはあるまいね。言語、風俗習慣は異ってもおなじ人間であるからにはね。だとする  と、推定できるケースは限られてくる。たとえば栄吉とお絹が背後にいるX氏から文書を盗み出すように依頼され、それに成功したとたん、約束された報酬に不満が生じた、ということも考えられる。文書を種に逆に相手を恐喝することもあり得る。その根本は金銭だろうね。お絹と栄吉にとっては文書を持っていても意味をなさないのだから  ――。しかし、X氏には文書が入手できないのは重大事だ。そこで、お絹を誘拐した。だが……」
「二人は文書をどこかにかくした。そのかくし場所を解く鍵が香炉のふただ!」
 と、私は叫んだ。馭者が振り向いてなにかいいましたかとたずねた。私は急げと言い返した。馭者は鞭を一振りくれ、ゆれはいっそうひどくなった。
「うまいぞ。その通りにちがいない。ミスター・モト。きみにはぼくのロンドンにおける友人の医師より論理的な才能があるようだ」
 と、ホック氏は私をおだてた。
「つまり、お絹と栄吉は文書を相手に引渡さないかぎり、非常な危険にさらされているというわけだね。これは、早急に彼等を保護する必要がある。なにしろ、われわれはまだ一度も当人たちに会ったこともないのだからね」
「今回は栄吉がお絹を救出したようだが、X氏は今後も追及の手をゆるめないだろう  ね。彼等が文書を手にするか、われわれが先か、いまからでも遅くはない。このレースに加わるのはね……」
 ホック氏は風に声が飛ばされるために大声でそういった。ゆれる馬車は乾いた道路に砂埃を巻上げ濠端の道を半蔵門から九段へ抜け、やがて神田神保小路も近くなった。  懐中時計の針は九時をさしている。表通りで馬車を止めるとホック氏が料金のほかに酒代をはずんで支払ったので、馭者は何度も礼をいった。私たちは馬車を下り裏通りの栄吉の店に歩きだした。
 ほとんどの家が大戸を降ろして、時折隙間だらけの雨戸から洋燈のにじむような黄色い光がもれているだけで、通りは犬一匹いない。
 だが、栄吉の家の前までくると、ふいに積上げてある桶のうしろから黒い人影が立上った。
「何者か!」
 鋭い誰何の声がした。
「おれだ。中条だ」
 警部がいうと人影は桶をまわって出てきた。頭に繃帯を鉢巻のように巻いた屈強の青年である。飛白らしい着物の裾をはしょってそこから肉色の股引の足が出ている。
「警部殿でありましたか。これまでのところ異常ありません」
 と、青年は直立不動の姿勢で報告した。警部は彼を一等巡査梶原刑事だと紹介した。私は頭部に負傷した上に、おそらくは一日中、この店を張っていた刑事をねぎらい、傷の模様を聞いた。
「外科医で五針縫いましたけど、もう平気です」
 と、彼は直立不動で答えた。
「もう一度、なかへ入るぞ」
「なんぞ探しものですか?」
「ああ、おめえも手伝ってくれ。探すのは香炉のふただ。ほら、ここから消えていたみどり色の埒もねえふたよ。あいつが、もっと残っているかも知れねえ。あれが案外重大なものだってことがわかったのよ」
「へえ……。あんな変哲もないものが重大なのですか」
「そうだ。おめえを殴ったロシア人も、そいつを狙ってるんだ」
「ははあ。思い出しても無念です。梶原伊太郎一代の不覚でした。津田三蔵の気持がわかります」
 滋賀県守山署の巡査津田三蔵が訪日中の露国皇太子ニコライ・アレキサンドロヴィッチを、大津において突如、抜剣して襲ったのはこの年の五月十一日であった。皇太子は耳の上部から頬へかけ、約十八センチの傷を負った。三蔵が皇太子を襲った理由は、ロシアが日本を侵略するため皇太子を視察に派遣したと信じたためである。この事件で朝野はあげて震撼し、天皇みずからが謝罪のため、京都までおもむくにいたった。さら  に、皇太子に申訳なしと自殺する婦人もあって、外相青木周造はただちに責任をとっ  て辞任、次いで内相西郷従道も引責辞職したのである。
 梶原刑事は自分を殴ったのがロシア人と聞いて恨み骨髄に徹しているらしい。
 四人は暗い屋内に入った。ホック氏の角灯がここでも役に立った。屋内はきのう見たときのままだった。
「栄吉が問題の香炉のふたを持っている可能性も否定できないね」
「それはどうかな。お絹はここにあると思って白状したのだが、誘拐されるまでは栄吉と行動を共にしていたのだろうから、栄吉が持っていれば知っているはずだ。栄吉も鹿鳴館から文書をお絹が盗んだあとは、いったんここへ戻って文書をかくし、そのかくし場所を解く鍵を作ったにちがいないが、それを持っているのは危険だと思って、さらに鍵もかくしたかもしれない……」
 散乱した茶碗や小皿や丼、土瓶、花瓶といったものをながめ、ホック氏は台所に進んだ。
「フランス人のデュパンという探偵を創作したアラン・ポーというアメリカ人を知っているかい?」
 と、突然、ホック氏はいった。私が知らないと答えると、
「デュパンは名探偵の代名詞のようにいわれているんだがね、十五分以上も無言でいていきなり人を驚かすようなことをいう。ぼくにいわせればデュパンはこけおどかしの好きな人間だ。しかしね、彼にも多少の論理的才能があることは認めなければならぬ。彼は盗まれた手紙を探す際に、それが重要なものならだれでもが探すだろう金庫とか手文庫とかではなしに、かえって人の目につきやすい場所に無造作に置いているにちがいないと思った。常識を裏返すのが、もっとも上手なかくし方だとね。手紙は状差しのなかに、ほかの手紙と一緒にさしこまれていた。僕もその故知に倣って――たとえば」
 と、ホック氏は台所の一隅に鍋釜といっしょに置かれた土瓶のふたを手にとった。
「これが、われわれの探しているものではないかね。みどり色の土瓶にみどり色のふたはあまりに自然だから、日本人であるきみたちはかえって気がつかなかったし、侵入したロシア人は店の香炉のふたに気をとられて、台所などは見もしなかったにちがいな い。きのうはぼくも文書に気をとられて、香炉のふたに気がつかなったが、それはぼ  くの知識にない異国の品物だったからだ。しかし、見たまえ、これにはつまみがない  よ」
 土瓶のふたに当然ついているべきはずの丸いつまみがそれにはなく、おまけにほかの香炉のふたは穴が三つしかあいていないのに、これは不規則に十個の大小の穴があいているのである。その穴の違いをのぞけば、材質も色も他の八個と寸分ちがわない。まるで幼児が悪戯半分にぶすぶすと穴をあけたといった印象であった。その穴はゆがんだ四角を形成するものがあり、触角のようにその二辺から連なるように一つは二個、他の一つは四個の穴があいているが、穴の間隔は等間隔ではなく、これまた不規則であった。
「きっと、これにちがいない」
 と、私はいったが、いくらながめてもこの穴の意味するところは知る由もなかった。
「いつ、これを焼いたのだろう?」
「文書を盗んだあと、それをどこかにかくし、いったん自宅に帰ったときだろうね。この種のものは一時間もあれば焼けるだろう。そのくらいの時間は充分にあったよ」
 たしかに楽焼に近いこの種のものは、火さえあれば短時間で焼ける。
「ゆっくり検討することにしよう。どうやらレースにいくらか先んじることができたようだね」ホック氏は興奮の色もみせずにいうと、「ぼくは帰って熱い湯を浴びて寝るこ とにしたいよ。その前に公使夫人のヴァイオリンを借りてなにか弾いてみたいと思うんだ。ひどくゆれる馬車と浅草の混雑でくたびれてしまったが、疲労回復に音楽はとても有効なんだよ」
 とインバネスの襟をかき合わせた。十個の穴のあるふたは私が持帰って検討をまず加えてみることにしたのは、もし、これが文字であったとしたらいくら明敏なホック氏でも読解は無理であったからである。中条警部は梶原刑事にこの店を監視する任務を解 き、帰宅すようにといった。刑事は不服気だった。彼は栄吉かお絹がいつか戻ってく  るかも知れぬので、三日三晩でも不休で張りこむ意気込みらしかったが、今夜でやめてもらうことにしたのである。なぜならば、彼等にとって重要なものが、もうわれわれの手に入ったと考えてよかったからである。
 外に出るとはたと困った。この時刻では辻馬車はつかまらない。しかし、中条警部が人力車の帳場を探して三台の車を都合してきてくれたので、われわれはそれに分乗して帰宅することにした。
 私は今夜も軽いときめきを感じていた。自分の懐中にある香炉のふたをめぐって、なにやら暗闘があり、そこに国の政治をかけた秘密があるのだと思うと、一刻も早く帰宅して明るい灯の下で香炉のふたの謎を検討してみたくてたまらなかったのである。
 お絹と栄吉はどうしているのであろう。決してこのふたりには同情すべき点はない が、しきりと気にはなるのである。これまでの推測によれば彼等はみずからの行動の招いた結果として、追われている様子である。それは身から出た錆というべきであるが、彼等がどのような運命をたどろうとしているかには深甚の注意を払わざるを得ない。
 帰宅してみると、留守中に陸奥家の馭者の又七が宗光からの届物を持ってきていた。封筒に十円札が十五枚入っていて添書があり、なにかと必要かと思うゆえ、当座の費用
として収めておいてもらいたい、ホック氏にも公使館を通じて同額を届けてある旨がしるされていた。
 私は書斎に入ると安楽椅子に腰を落着け、テーブルに置いた洋燈を引寄せ、あらためてまじまじと持参した香炉のふたをながめた。ふたそのものは店から紛失し、笄町の廃屋で発見されたものと全く同質である。栄吉が自家の窯で製造したものにちがいない。私はまず表裏を詳細に観察したが得るところがなかったので十個の穴をみつめた。なんとしてもこの十個の小さな穴が、なにかを語っているに相違ないのである。
 一体、どういう角度から見るものなのだろうか――それが、まず第一に決定されなければならない。しかし、回転させてみてもそこから意味あるものは浮かんでこなかった。
 ふと、私は中国の故事にある香印に想到した。香印とは香を焚くと薫煙がいくつかの穴から立昇る際、一つの文字なり図形なりを描くことをいう。香炉に刻まれた吹出口  が、あるいはそのようにでもなっているのではないか、と私は思ったのである。
私はわが家の香炉を持ってきて、その上に栄吉のふたが乗るようにし、香をくべてみた。十個の小穴からは細い紫煙がゆらゆらと立昇りはじめた。私は煙の様子を凝視し  た。
風を立てないように香炉のまわりを移動し、さまざまな角度から薫煙の状況を観察したが、やがて、私は失望の吐息とともに腰を下ろした。ついに――どのような角度からも、何等、意味ある形を発見できなかったのである。
室内は白檀の香りが充満した。実験に熱中したあまり、かなりの量をくべていたのである。
香印ではないとするとなにか。私は紙に穴の位置を写し、各点を線で結んでみた。それはまずゆがんだ四角を作り、二本の触角のように線を伸ばしたものになった。次に触角と触角を結んだもの、四角を対角線で結んだものなど、考えられるかぎりの線を結んでみたが、それも――なにかの意味ある文字、図形にはならなかったのである。
私は腕をこまねき、長いあいだ沈思黙考した。さまざまな方法を考えては消去し、あげくの果にはこの穴は特に意味あるものではなく、真に重要な香炉のふたは、まだべつにあるのではないかとすら思うようになった。
いつか、私は疲れてまどろんでしまったらしい。肩に手がかかるのを感じて眼をあけると、妻の多喜が茶を淹れてきて、私を起したのだった。
「お風邪を召しますわ。うたた寝をなすっちゃ。――まあ、ひどいお香……」
多喜は窓をあけた。冷えた風が入ってきて室内にこもった香煙を吹きはらった。
「晴信は寝たのかね?」
「とっくに。あの子は八時には寝てしまいますもの。そういえばここ二日、顔も見ていませんね。あの子がさびしがっていますよ」
「そういえばそうであった……」
 私は子煩悩なほうで、それまでは暇さえあれば子供にかまけることが多かったのに、この二、三日はすっかり遠ざかっている。
 多喜は窓を閉め、私の向いに腰を下ろした。
「陸奥様からのお仕事はうまくはかどりまして?」
 と、彼女はいった。
「はかどっているようないないような……。まだどのくらい時日を要するか見当がつかない。御期待に添えるとよいのだがね」
「診療のほうは代診の岡田先生が、そりゃ熱心に診てくださっているので、安心していらして結構です」
「その点は私もうれしく思っているよ」
 多喜は思い惑ったように睫毛を伏せ、また開いた。
「あの、ホックさんはこれからも宅でお食事を召し上りますか?」
「なぜだい。時にはあるかもしれないがね」
「なにを差上げたらよいか迷ってしまいまして。いまから西洋料理を習うわけにもいきませんし……」
「そんなことか。気にかけるには及ばない。あの人は生魚が苦手らしいが、そのほかのものは喜んでおいでのようだ。赤ワイン――あの人がクラレットと呼ぶボルドー産の葡萄酒を欠かさなければいいよ」
「それならいいんですけど……。ものの本を見ますと外国の方はコーフィとかいうものをよくお飲みになり、パンと塩漬けの豚肉などを召し上ると書いてございました。パンは知っておりますが、ほかのものは見たこともございませんもの……」
「そうだったな。今度、本郷の野田安か四谷竹町の三河屋にでも連れて行ってあげよ  う。シチューとかオムレツとかならおまえの口にも合うだろう」
「それはなんでございます?」
「シチューは肉と野菜を煮こみ牛乳などを加え調理した汁だ。オムレツは西洋の玉子焼きだな。挽いた肉に味をつけ、うすく焼いた玉子に包んだものだ」
「どんな味なんでございましょう」
「食べてみればわかるさ。おいおい、日本にも西洋の料理が繁盛するようになる。後学のために食べておくのもいい。そうだ。今度ホック氏が来られたら甘いものをすすめてみよう。塩瀬の饅頭か壺屋の錦織でも買っておくといい」
 私は茶をすすった。その眼が卓上の香炉のふたに行くと、私は現実に引き戻された。

5、美しい玉乗り


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