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先生方の作品集
6、女の栂指

第七章 かくれた顔

加納一朗

 奥から出てきた人物を一目見て、私はこれが坂巻諒であると直感した。壮士という人  種はどうして類型化しているのであろう。彼も三田栄吉や茂木啓輔と共通する雰囲気を 持っていた。年齢は四十代半ばと思われた。鬢にちらほらと白いものが見えはじめてい  るが髪を長くし、色黒の、眼の大きい唇の分厚い、背はあまり高くないがその分だけ肩  幅の広いずんぐりした感じの男である。
「突然、おうかがいして申し訳ありません。坂巻さんですね?」
「うん……」
 彼は私と背後のホック氏を見て、戸惑った眼をし、不得要領にうなずいた。何者かと  怪しんでいる態度がありありであった。
「こちらはイギリスの方でホック氏。私は医者で榎元信といいます……」
 と、まず私は名を告げた。坂巻は私たちに眼を据えた。
「わかった。われらの同志三田のあとを追いかけまわしているという二人組だな。三田  は無残にも殺された。それは知っているだろう。用はないはずだ」
「私たちは三田栄吉を殺した犯人を探っているのです。栄吉にはお絹という女がいます が、彼女を早く保護しないと彼女も殺されるかも知れないのです。それで、やってきま  した」
「おれには大体、おまえたちがなんで三田のあとを追いまわしているかわからないぞ」
「詳しいことは言えませんが、信じてください。あなたは栄吉やお絹と親しかった。お  絹はこちらへ来ていませんか?」
「いきなり押しかけてきて、詳しいことはいえぬ、お絹はいないかといったって、それ  は無理というものだ。お絹なんかここへは来なかった。それが返事だ」
「そうですか……。三田を殺した人物に心当りはありませんか?」
 相手は最初から喧嘩腰である。私がそう訊ねると、眼が光った。
「知らんな。帰ってくれ。毛唐が我家の敷居をまたぐことさえ不浄だ。帰らぬと刀で追  い散らすぞ」
 うしろにいたホック氏がいった。
「彼はなんといっているんだい?」
「お絹は来なかったといっているんだ」
「それなら隅にある女性用の下駄はだれのか聞いてくれたまえ。ぼくはおなじものを浅 草の小屋でみたよ」
 乱雑に下駄が脱ぎ棄てられている土間の片隅にそれはあった。丸に綾の焼印の入って いる駒下駄である。私の視線がそこに行くと坂巻の顔色が変った。足音が高くして、三  人の屈強な男が手に手に仕込杖を持って彼の背後に現われた。
「お絹はいるのだね?」
 と私はいった。
「たたき出せ!」
 坂巻の言葉に壮士のひとりが仕込みの柄にゆっくりと手をかけて刀を抜くと、抜身を私たちに突きつけた。
「ミスター・モト。この場は帰るとしよう……」
 ホック氏が私の肩を押えた。私は坂巻をにらみ、無言できびすを返した。外に出ると  壮士たちの哄笑が聞え、坂巻が塩を撒けと怒鳴るのが聞えた。
 私は怒りで唇を噛みしめた。ホック氏が洋傘をさしかけてくれた。冷たい雨が頬をぬ らした。
「居場所が判明しただけでもいい……」
 と、ホック氏がいった。
「なんという無法な連中だろう。彼等を全員ひっくくってやる方法はないだろうか   ……」
「彼等はどういう種類の人間なんだね?」
 と、ホック氏が聞いた。私たちは坂を下りて谷間の町へと歩いていた。私は手短にも  とはといえば自由民権思想をもって、維新以来の薩長政府の専制政治を打破しようとし た巷間の志士たちが壮士のはじまりだということを話した。いまは条約改正をして、各  国と対等の立場に立つことが主目標の思潮となっている。
「――日本は関税面でも不利、外国人に対する裁判権もなく、横浜の居留地には日本人 は手をつけられず、その治外法権下の土地にはきみの国のランカシャー狙撃隊をはじめ 各国の軍隊が駐留しているという状態だ。これもあれもすべて不平等な条約のせいだ。 真の独立国家として存立しなければならぬ日本を考えると、壮士を理解もできるのだ  が、壮士のなかにはいたずらに口に思想を唱えながら実態は町のごろつきと変らぬ者も 多い。ゆうべ家へ来た茂木という男のように……。坂巻という男の現在は知らないが  ね」
「早く条約が改正されるといいね」 
 ホック氏はなぐさめるようにいった。坂道を下りきり江戸川橋まで歩いて、そこから 人力車に乗った。行先は浅草であった。綾太夫にともかくもお絹が無事でいるらしいこ とを知らせてやろうと思ったのである。私の心は降る雨のように晴れなかった。すごす ごと帰るのは屈辱であった。
 そぼ降る雨のなかでも浅草は活況を呈していた。この雨のなかを濡れるのもいとわ  ず、自転車に乗る者が多いのも一驚であった。近年の自転車の流行はいちじるしく、女  子学生までが紫の袴をひるがえして乗っている。綾太夫の見世物小屋の楽屋から入る  と、顔を見知っていた若い女芸人が、太夫はいま出ですという。よしずの間をくぐって  舞台の袖からのぞくと、客席はさすがに七分の入りで平日の金曜日のせいか女子供が多 かった。舞台ではあでやかな、裃姿の綾太夫が三尺余の玉に乗って、音曲の陽気なリ   ズムに合わせ、頭上に傘をかざしながら上手から下手へ、下手から上手へと往復してい るところだった。長年の修練で鍛えた芸は水際立っていて寸分の狂いもなく円形の球上 で微動だにしない。
 音曲が一段と高まると、袖に待機していた若い娘たちがいっせいに、やや小型の玉に乗って進み出て、天井からは七彩の紙吹雪が舞い、錯綜して群舞となる。ひとしきりそれがつづいたところで幕が閉められ、綾太夫は玉に乗ってころがしながら袖に入ってきた。
「先生方のお顔が見えましたので、そりゃあ気が気じゃなくて。なにか、わかりましてござんすか?」
 顔に吹き出た汗を拭うのももどかしそうに彼女はいった。
「坂巻の家にいるらしい。だが、会わしてくれん。しまいには壮士らしい者が二、三人出てきて白刃でおどかす始末だ。ともかくそれだけは知らせておこうと思ってね。心配だろうから」
「ありがとうございます。いくらかほっとしました……。が、どうして先生のところへ行くと出て行ったお絹さんが坂巻とやらの家にいるのでしょうねえ」
「私のところへ行く気だったのが、途中で気が変ったのかも知れないよ。栄吉の親友のほうが頼れると思ったのだろう」
「それならそれでちょっと知らせてくれりゃいいじゃござんせんか。眠らないで心配していたのに……」
「それもそうだ。もしかすると……」
 私は口をつぐんだ。
「なんです?」
「お絹は坂巻にさらわれたのかも知れない。何もおまえさんに知らせてこないというのは確かにおかしい。坂巻は栄吉とずっと連絡を保っていたのだろうか……」
「さあ……」
「ホック君」と、私は思わず名前で呼びかけた。「もしかしたら栄吉が会いに出かけた  相手は坂巻じゃないのかね。栄吉を殺したのも……。お絹は生きているだろうが、今度は坂巻に誘拐されたのではないかね。つまり、あの盗まれた文書をめぐって、ザブルーニン大佐の一派と坂巻諒たちの一派が暗躍しているのではないかね」
「その可能性はあるね」
「中条警部にいって、すぐにでも警官隊を坂巻のところに派遣してもらおうじゃない か。そうすればお絹も救出できる」
 私はせきこむようにいった。
「具体期な証拠がないよ」
「あの駒下駄だ」
「いまごろはとっくにかくしてしまったさ。彼等とて馬鹿じゃない。ふみこんでお絹がいなかったらどうするかね。彼等を逮捕する別の容疑がなければ無理だ。その点でぼくたちが坂巻を訪ねたのは少々早まったかもしれないな。もう少し考えてから行動すべきだったよ」
 ホック氏は残念そうにいった。
「ではどうすればいい?」
「彼等の動きを見よう。お絹があの家にいるという絶対的な証拠をつかむのだ」
 綾太夫には今後も連絡するといって、間もなく私たちは小屋を出て帰路についた。
 雨足は烈しくなり、傘を携行しているにもかかわらず、私の上衣の肩からチョッキの胸にかけて水がしみこんできた。
 一時間かけてわが家に着いた私は、玄関にかけられた『本日休診』の札を見て、首をかしげた。もしかしたらこのところ代診に来てくれている岡田君がなにかの都合でこられず、止むを得ず家人が休診の札を出したのかと思い、玄関を一歩入った私は直感的に異変を感じとった。元晴がけたたましく泣いている。
 「多喜!多喜はいないのか?おくに!おくにもいないのか?」
 私は妻と下婢の名を呼びたてた。返事はなかった。ホック氏が私より先になかに飛び込んでいった。
「おお、ミセス・エノキ!」
 ホック氏が叫んだ。書斎をのぞいた私は棒立ちになった。書斎は足のふみ場もないほど物が散乱していた。中央の椅子の背に両手をまわして縛られ、口には猿轡をかまさ  れた多喜と下婢の姿が眼に入った。
「どうしたのだ!」
 私は急いで口が利けるようにしてやり、いましめを解きにかかった。
「あなた!」
 多喜は蒼白な顔で喘ぎ、私の服の襟にしがみついた。下婢の十七歳のくにに至っては口を利くこともできず失神寸前の状態である。ホック氏は手早くグラスにブランデーを注いで多喜と下婢に渡した。むせたが一口飲むといくらか血の色が甦ってきて、人心地がついたらしい。ふたりとも怪我はない。
「なにがあったのだね。岡田君はどうした?」
「あなた方が出て行かれたあと、しばらくしてから岡田さんが身体の具合を悪くしたので代りに来たといって男の人がまいりました。なんの不審も抱かなかったのですが、その男はいきなりあとから入ってきたふたりの男と一緒に、私たちを脅迫し香炉のふたはどこにあるのか言えというのです。存じませんと申しましたら、あの通り椅子に縛りつけ眼の前で家中をひっくりかえして探したのです。そのうち、書斎を探していた男のひとりがついに香炉のふたをみつけ出し、あったぞと叫ぶと男たちは口々に、これをつきつけてお絹に白状させることができるぞとか言いながら引揚げていったのです……」
 やはり香炉のふたが目的であったのか。私は狼藉を極めた室内を見まわした。
「ミセス。どんな男たちでしたね?」
 と、ホック氏は一語一語ゆっくりわかりやすい発音でいった。
「ひとりは存じております。ゆうべ、あなたに大きな声を出した人です。わたくし、昨夜、声がおそろしいのでそっとのぞき見をしたのでございます。たしかにあの人でございました。先方はわたくしに見られていたことにはまったく気づかないようでしたが、わたくし、男たちがいるあいだじゅう、もしやわたくしを見ていたのではないかと気が気ではございませんでした……」
「茂木啓輔か……」
 私は呆然とした。白昼、公然とこのような暴行をはたらくとはなんたることであろ  う。これではまるで本年刊行された丸亭素人訳の『黒闇鬼』か英人ブラック口述の『探偵小説 車中の毒針』のごとき読物より奇である。
「茂木はきみに三田栄吉の所在を探してくれるよう依頼されたのちに、金で寝返ったにちがいない。あの新しい十円札がそれを物語っている。栄吉が死んだ以上、きみに金を返しておくことで区切りをつけるかたわら、昨夜はこの家にだれがいるのかを見に来たのだ」
 と、ホック氏がいった。
 啓輔は私の依頼で興味を抱き、壮士仲間に訊ねたのであろう。そして、反対に金で買収され、向うについたのであろう。その仲間とは小石川小日向台町の坂巻諒の一派かもしれない。壮士たちも文書を追い、かくし場所を知っているお絹と香炉のふたが必要だったのだ。
「栄吉を殺したのは壮士だ……」
 三田栄吉は壮士仲間のだれかと会うために芝の竜徳寺へ出向いた。そこで、自分の味方と思って気を許していた相手に刺されたのかも知れない。その仲間とは坂巻諒であるかもしれない。栄吉が死に真犯人が立去ったあとに、ザブルーニン大佐たちが駈けつ  け、さらに彼等の帰ったあとに私たちが駈けつけたのだ――。
 壮士という者は横の連携が緊密で、だれもが知り合っているものだから、坂巻と茂木啓輔が旧知の仲であったとしても不思議はない。
 しかし、私には坂巻が文書を追っている一味の首魁であるとは思えなかった。私の会った坂巻諒は文書を入手して、それをとやかく利用するような大物には見えないのである。彼は知的な策謀を操る策士というよりは、単純な暴力派のようである。彼は行動隊の組頭ぐらいにはなれようが、それ以上のものではなさそうである。もしかしたら、壮士たちを操るもっと上の人間がいるのではなかろうか。その人物は茂木啓輔に金を渡した元につながる人物であるかもしれない。
 だとすると、一方にロシアのザブルーニン大佐、一方に壮士たち、そのはざまに巻きこまれているのが三田栄吉であったし、お絹であるという図式がはっきりしてくる。
「証拠だよ。証拠もないのに断定してはいけない」
 と、ホック氏がいった。
 私とホック氏は乱雑になっている部屋の後片づけをする一方、近所の懇意にしている植木屋の主人をわずらわして、代診の岡田君のところへ安否を聞きにいってもらった。岡田君が来なくなったのは、決して偶然の符合ではないと思ったからである。
 書斎や居間の片づけが一段落しかけたころ、植木屋の主人が帰ってきた。
「岡田先生はお宅ですこぶるお元気でございましたよ。今朝ほど榎先生からの使いが来て、先生が今日は休診するので、今日一日休んでくれとのことだったので、勿怪の幸いとばかり好きな娘義太夫を聴きに行って、いましがた帰ってきたところだとおっしゃいました」
「そんなことだろうと思ったよ。使いに来た男というのはどんな男か聞いたかい?」
「へえ。二十七、八のいかつい男だったそうで。書生ふうだったといってましたよ」
 おそらく壮士のひとりだろう、と私は判断した。書生と壮士とは典型的な服装が似通っていて、また髪の形、口の利き方、歩き方までどこか共通するものがあるからであ  る。
 労を謝して主人に帰ってもらうと、私は奥で休んでいる多喜と、女中部屋のくにを見舞った。多喜は元気を取戻して息子に話しかけていたが、すっかり怯えてしまったのはくにのほうである。なにしろ縛られて恐怖の数時間を過したのであるから、十七歳の身にとっては死ぬほどおそろしかったのも無理はない。
 私はよっやく片づいた書斎で、なにやらがっくりした気持でホック氏と向い合っ  た。
「ついに妻子にまで危険が及んできたね。当分のあいだ実家へ避難させようかと考えたところだ。香炉のふたは奪われてしまうし、ぼくは前途に悲観的にならざるを得ないよ……」
 窓の外には霖雨が蕭々と降りしきっている。灰色の雲は重くたれこめ、陰鬱な午後  であった。これからは一雨ごとに涼しさが加わる。
「彼等はふたの小穴の位置を写しとった紙まで持っていったかい?」
 と、ホック氏がいった。
「いや、それは日記の間にはさんであったので無事だったよ」
「ふたはなくなっても、それがあれば大丈夫だよ」
「といったって、まだ見当もつきはしない。僕には暗号解読の才能なんであるとは思  えないからね」
「やけに悲観的だね。人間というものは自分に自信を失うと、十の力のうち五つも力を発揮できないものだ。すべからく自信を持つことだよ。あの暗号についてはぼくもぼくなりに考えてみた。暗号の構成要素が漢字とか東洋の特殊な慣習によるもだと、わか  らないハンディキャップはあるが、人間の本質は西洋も東洋も変らないという観点からすれば、僕も一、二のアドヴァイスをしてあげることもできる。人間というものは、   日常の言動に左右されるものだから、暗号を作った作者の身になって考えればヒントがつかめるかもしれない。もっと想像力のある人間なら、観察力を働かせて暗号を帰納的に分析することもできるだろう。ぼくたちはしばしば明白に呈示されているものに気がつかないという失策をやるからね」
「すると、きみは三田栄吉という人物をもっとよく知れというのかね?」
「まあ、そうだ。この前もいったように決して複雑な暗号ではないはずだ。緊急の場合に考えるのだからね。栄吉とお絹のことをよく知ることが肝心だ」
「……わかった。しかし、こうしているあいだにも坂巻に責められてお絹が文書のありかを白状するかもしれない。そうしたら、みすみす文書は彼等の手中に落ちてしまう」
「お絹は白状していない。香炉のふたを奪いに来たのは、彼等が暗号の所在だけを知っているということだ。彼女はザブルーニン大佐にも白状しなかった。壮士たちにも白状しないにちがいない」
「どうしてそういえる?」
「お絹の身になって考えてみよう。文書は――本当は自分がかくしたのだが――栄吉がかくして、香炉のふたに暗号を作ったがどこにかくしたかは自分は知らないと言い通すこと。あるいは、文書を盗み出したあとでそれを栄吉に渡し、栄吉がかくして実際にお絹自身も場所を知らず、いまとなっては手がかりは香炉のふただけであること。――どちらの場合も、大佐や壮士たちが香炉のふたを手に入れるために血眼になる理由の説明がつく。彼等はふたをお絹につきつけて、彼女からヒントを得ようとするだろう。ザブルーニン大佐のほうは単なるふただけ手に入れて失敗したがね」
「お絹はかくし場所を知っているとばかり思ったが、これを知らない、と仮定してみよう。その場合、坂巻たちは彼女をどうするだろうか」
「それが問題だ。今日、ぼくたちが坂巻のところへ直接、行ったのは失敗だったが、まだ間に合う。実はぼくひとりでもう一度、行ってみようと思っているのだ」
「きみひとりで?それは危険だ。この際、警察の力をやはり借りるべきだよ」
「これはあくまで公にしてはならない仕事だということを忘れないでくれたまえ」
「しかしだね、相手は刀を持っているんだ。きみに万一のことでもあったらどうす る?」
「向うが剣を使えばぼくも剣を使う。香見えても剣の使い方は心得があるんだ」
 私は必死になって止めたが、ホック氏はなにか期するところでもあるのか、頑としていうことを聞かない。ついにはそれなら私も行動を共にしようといったが、今度はホック氏が君は妻のそばにいてやらなければいけないというのだった。
 押問答していると、玄関に聞き馴れた声がした。中条警部である。彼は梶原刑事と一緒で、桐油をしみこませた紙の合羽からしずくを垂らしていた。
「いいところへ来た。いろいろなことがあってね」
 私は書斎にふたりを誘い、一日の出来事を話した。ふたりは話を聞くうちに上気してきた。
「坂巻のところへ行くのならわたしも行きます。壮士の二人や三人何ほどのことあらんやです」
 と、中条警部は意気込んだ。
「私もお供させてください」
 と、梶原刑事も叫んだ。
「茂木啓輔とやらは今夜にでもひっくくってやります。明白なる不法侵入、強盗でありますからな。これはお委せください」
「どうするね。サム君」
 と、私はホック氏の意見を求めた。
「ぼくの考えは、お絹を救出することではない」
 とホック氏がいった。私は唖然とした。それならなぜふたたび坂巻の家へ行くといったのか。
「ぼくたちの訪問で、彼等はお絹をほかへ移したろう。ぼくは壮士のひとりをつかまえてくる気だったのだよ」
「なんだって?」
「つかまえてその男に行先を聞き出すつもりなのだ。先方がお絹を監禁したのなら、こっちも監禁したっていいだろう」
「なるほど……」
「もっとも監禁する場所がないから必要なことだけ聞き出したら、警部にあずけて二、三日、留置場に泊められるようにしてほしい。罪状はなんだっていい。彼から聞き出したということを知られなければいいのだ」
「わかりました。なあに、壮士の輩なら壮士であるということだけで理由は充分です。彼等はみな過激思想の持主なんです」
 結局、ホック氏と同行するのは中条警部と梶原刑事の二人となった。私は念のためにホック氏にステッキを、警部に拳銃を貸し与えた。
「ああ、これまでのお話ですっかりこっちの話がおそくなりました。わたしがうかがったのは例の珊瑚珠の中間報告ですよ」
 と、警部は磨かれた拳銃をしまいながらいった。
「なにかわかったのかね?」
「梶原と手分けして名のある簪屋を聞きこんでいるのですがね、まだ行き当らないの です。今日一日で三十軒あたりました。まだ、あと四十軒はあるんです」
「それは大変だね。早くわかるといいが……」
「そのつもりですよ。――では、行ってきます」
 私はブランデーを警部と刑事に振舞った。梶原刑事は眼を輝かせた。
「昨年、コレラが流行した折に、われわれまで狩出されましてね。火葬場へ死体を運ぶためですよ。警官もいやがりましたが、本庁では予防のためにブランデーを一杯ずつ振舞いました。これを飲むとコレラにかからないというのです。巡査のなかにはブランデー一杯が欲しさに死体運びをやる者もおりました」
 刑事は惜しそうにグラスのしずくをなめ、では行ってきますといった。私は三人が雨のなかへ出て行くのを見送った。共に行けないのが残念であったが、白昼、襲われた家をすぐに留守にするわけにはいかない。多喜のそばにいてやらなければ、多喜が心細い想いをする。 
 私は不安と焦慮に落着かず、雨の庭をながめた。急に静かになった家のなかは、その静かさがかえって重くのしかかってくるようだった。
――結果からいえば、ホック氏たち三人の行動は成功したと同時に失敗したのであ  る。 
 夕方、すっかり早い黄昏に包まれたころホック氏と中条警部が帰ってきた。私は玄  関に飛び出して迎え、まず無事であることを祝い、首尾を聞いた。ホック氏は落胆し  た素振りで元気がなく、中条警部も浮かない顔をしていたので、私は成果が芳しくな  かったことを予感したが、それでももどかしい想いで聞かずにはいられなかったので ある。
「ぼくたちは坂巻の家から、ややはなれた場所で家を出入りする者を見張っていた  ……」
 と、ホック氏はパイプを加えながらいった。「三十分ぐらいすると、僕たちに抜    身をつきつけた見おぼえのある男が出てきた。彼は普通の足取りで坂を下って行くの  で、われわれはそっとあとをつけた。坂の下の神社のあるところで警部が男を呼びとめた。男は振り向いてぼくを見ると、あわてて逃げ出そうとしたよ。武器を持っていないと弱気になるものだ。警部と刑事が飛びかかったが、頑強な抵抗を試みて、一時はふたりがかりでも押さえきれないくらいだった。そこでぼくも加勢してようやく男に縄をかけ、神社の森のなかで尋問したよ。男は最初は無言でわれわれをにらみつけていたが、ついに坂巻がお絹をあの家から連れ出したことを認めた。朝、モトとぼくがあの家を訪れてから間もなく、坂巻が馬車を呼んできて、お絹を乗せていったそうだ。だが、行先は知らないというのだ。嘘ではないらしい……。本当に知らない様子なのだ」
「責めたのですがね。嘘をいっていればわたしにはわかりますが、本当に知らないらしい。坂巻はなにも教えてくれなかったそうです」
 と、中条警部がいった。
「でも、大成功じゃないか。また、馬車屋を手繰ればいいんだ」 
 と、私はいった。警部が横に首を振った。
「辻馬車ならそれもいいのですがね、お絹を乗せていった馬車は立派な二頭立てで、紋を紙でかくしてあったというのです。どこか偉い人の馬車ですね」
「坂巻はそれきりまだ戻ってこないという。つかまえた壮士は梶原刑事が近くの警察署に連行していった。なにかの理由をつけて二日ばかり泊まってもらうことにした」
 お絹の行先は依然としてつかめないのであるが、坂巻がお絹を乗せていった馬車とはどこの家のものであろうか。
「坂巻が馬車を呼んでくるまでに、約一時間かかったということだ。これが手掛りだ ね」
 と、ホック氏はいった。
「ああ、つまり比較的近距離にあるのだね。その馬車の出発した地点は……」
 雨のなかを坂巻がその家に行くまでに、たとえ三十分かかったとしても、馬車が引き出されるのに十分しかかからなかったとしたら、実質走行時間は約二十分。あるいは十五分ぐらいである。これは馬車の出発点が坂巻の家を中心にして半径一里半ぐらいのなかにあることを意味している。馬車の速度は市内なら時速八マイル程度だ。定紋入りの二頭立て馬車を気がちがったように疾駆させることもないであろうから、この推測はおおむね的を射ている。
「ぼくの見るところ、立派な馬車を保有しているのはかなり上流の家らしいから、探すのにそんなに手間はかからないと思うがどうだろう」
「もちろんです。珊瑚珠は梶原に委せ、わたしが馬車を調べましょう。これは多忙になってきたぞ。その前に茂木啓輔を逮捕しなければなりません。梶原がもうじき来るはずですから、奴が来たら出かけます」
 はや一日は暮れ、暗々たる空からは雨の音だけが聞える。軒端うつ雨の音に気づいてみると、室内は火が欲しいくらいに温度が下っていた。
 間もなく梶原刑事がやってきた。彼はホック氏たちとつかまえた壮士を警察まで護送してからこちらへ掛けつけたのである。
「御苦労だった。手古摺るようなことはなかったか?」
 と、中条警部は部下にねぎらいの言葉をかけた。梶原刑事は手拭いで髪から顔の雨のしずくを拭いながら白い歯を見せた。
「あの男は植木新次郎といって、かねてから手配中の者であることが判明しました。金に困って押しこみを働いたのです。所轄署では大喜びで二日どころか二年は娑婆に出られないだろうといっておりました。先方の手柄にしてやったものですから、尚更、感謝されましたよ。ところで、植木もそうですがあの家にいた壮士はいずれも無頼の徒で、坂巻に金で狩集められていたということがわかりました。その目的は三田栄吉とお絹の所在を探すことにありましたが、彼等は浅草の小屋にひそんでいるふたりをみつけることに成功して、それを坂巻に報告したそうです。ただ、ふたりは発見しても手は出してはならぬと厳命されていたということで、竜徳寺の一件は一切知らぬ、あの日は坂巻をはじめ一同、どこにも行かずに家にいたといっておりました。植木のいうには坂巻もだれかの命によって動いているようだとのことでした。あっ、それから茂木啓輔も自分たちの仲間に加えられたと白状しました。茂木は数日前ふらりとやってきて坂巻となにやら話し合っておりましたが、そのあと坂巻がみんなに紹介したそうです。植木たちも茂木とは以前から顔見知りだったそうですよ」
 刑事の言葉でこれまでの推測が裏づけられた。やはり茂木啓輔は私の依頼を受けて、三田栄吉のことを心当りに訊ねにはいったのであろう。そして、ミイラ取りがミイラになってしまったのだ。
「これで茂木が一味と結託しているとわかりましたからには、猶予なりません。糾明して金の出所を吐かしてやります。――おい、梶原、御苦労ついでにもう一働き頼むぜ」
「承知しました」
 話がきまれば早いほうがいいと、私たちは揃って出かけることにした。今度は茂木の家への案内役で私も同行することにした。
 多喜は元気を回復しているものの、くにのほうはまだ静養を要する状態なので、女たちの不安を解消する上からも、私はまた植木屋の若主人をわずらわして、しばしの留守を頼むことにした。若主人は屈強の若い職人を連れて快くやってきてくれたので、私たちは日ヶ窪の茂木啓輔の許へ急いだ。

 一日、降りつづいている雨は夜になって烈しさを増し、冷たい風も加わって荒模様となってきた。傘などは役に立たないので、二枚ある私の合羽の一枚をホック氏に貸し、氏は頭巾をかぶった。私も洋服の上に合羽と笠という、白昼ならいささかそぐわない姿で出かけることにした。今度は用意怠りなくピストルに弾丸がこめられているのを確かめ、木刀も持ち角灯も点検した。
 歩くほどに樹々が風に鳴る音と、篠つく雨の音が暗い町筋にこだまし、犬の子一匹見えぬ様子はあたかも嵐の深山の感じがあった。雨は私の肌にしみ通ってきたが、その冷たさも意識せぬほど私は興奮しきっていた。やがて、私たちは日ヶ窪の啓輔の家の前についた。
「裏口はありますかな。梶原とわたしは表口から入りましょう。先生とホックさんは裏口を固めてもらいましょう。もし、裏から逃げ出す素振りでもあったら頼みます。おっと、その前に窓の様子も見ておきましょう。この風と雨じゃあ、少しぐらい足音を立てたって聞こえやしません」
 家は玄関が北東を向いていて、南西側に縁がある。縁側の雨戸は閉まっており、まだガラス戸など入れていないので、あと、窓といえば厠の小窓ぐらいしかない。羽目もところどころで破れ、この雨では雨漏りも多いのではないかと思われる茅家である。
 私とホック氏は勝手口の前に立った。
 間もなく戸をがんがん叩く音にまじって、
「警察の者だ。開けろ、開けろ!」
 と、怒鳴る梶原刑事の声が聞えてきた。私は手にした木刀を握りしめた。もし、こちらから飛び出してきたら打ち据えてやろうと思ったのである。
「御用の筋だ。開けないとたたき破るぞ!」
 中条警部の声もした。しかし、内部はしんとして人の動く気配はなかった。やがて、ついにしびれを切らしたのか、戸が大きな音を立てて倒れる音がした。
 数秒――なにも音がしなくなった。格闘の音でもするかと私は全身の神経を耳にしたが、なにも起らず、そのうち足音がして勝手口の閂をはずす音がして、がらりと戸があいた。
 角灯を手にした妙に白茶けたような中条警部の顔がのぞいた。
「先生、来てください」
 ホック氏と私はそのただならぬ声に思わず顔を見合わせた。警部のうしろから勝手口をくぐると、そこは土間でわずかな鍋釜が目についたが、それらは絶えて煮焚きされたことがないように赤錆びて放りだされていた。
 中条警部は居間に私たちをみちびいた。八畳の居間には梶原刑事が角灯を手にして立っていた。部屋には文机が一隅にあり、その上に刑事がともした洋燈がジ、ジ、ジとかすかな音を立てながら弱い炎を上げていた。ほやを掃除もしたことがないような洋燈である。内部は家と同様荒涼としていた。ほとんど家具らしい家具はなかった。湯呑みと一升徳利、それから綿のはみ出た座布団。その横に畳の上に仰向けになって倒れている男――。
 虚空をにらんでいる茂木啓輔の表情にはびっくりしたような気配が残っていた。なにかに驚いて、その驚きが突然、凝固凍結してしまったようである。これに似た表情を私は見た記憶がある。芝の竜徳寺の荒れはてた庫裡で死んでいた三田栄吉にも、こんな表情が浮んでいた。
 そして――彼の胸、心臓の真上の袷が血に染っていた。私は袷をひろげた。出血はそれほど多量ではなかったが、胸は赤黒く血でぬれていた。鋭利な刃物によると思われる刺創が血の中心にあった。だが、凶器はどこにもない。
「灯を近づけてくれ」
 私は綿密に刺創を調べた。死体は硬直がはじまりかけていた。
「死後三、四時間だね。致命傷はこの傷だ。ほかには傷はないようだ。この角度からすると下から上へ突き上げたのだね。抵抗のあとはまったくない……」
 ホック氏は片足でひざまずき、例の天眼鏡を取り出して死体を調べはじめた。
「モトのいう通りだ。犯人は背後から抱きつくようにして、逆手に持った短刀で突いたのだ。それ以外にこの角度での傷は考えられない。おや、この襟元を見たまえ、興味のある事実に気づくよ。白粉がついている。それからかすかだがあの十円札と五円札についていた匂いとおなじ匂いがする。ほら、あの左利きの女だ」
「犯人は女かね?」
 私はおどろいていった。
「そうだね。うしろから抱きついて心臓を刺すのも左利きだと容易だ。抵抗していないのも女だから気を許していたといえば説明がつく。返り血を浴びないためにも背後から抱きつくのはいい方法だ」
「先生……」と、中条警部が不審そうな声でいった。「茂木が殺されたとすると犯人は  どこから逃げたのですかね?表の戸は内側から鍵がかかっていて、押し倒さなければ 入れませんでした。勝手口は閂をはずさないと先生たちをお入れすることもできませんでした。雨戸の棧はみんなしまっています。ほかに出入りできるようなところはありませんぜ」
 梶原刑事が厠から押入れまで捜索を終えて戻ってきて、怪しいところはないと報告した。
「天井裏はどうだ。あるいは床下だ。そこから外へ抜け出せるかもしれない」
「そうですな」
 それから警部と刑事は家中の畳をはがしたり、天井裏にのぼって埃と蜘蛛の巣だらけになってりしはじめた。私とホック氏は死体の検案が終ると、室内に変ったところはないかと調べはじめた。
 啓輔の家の間取りは八畳と次が六畳、そして玄関を上ったところに二畳があるだけである。啓輔の貧窮ぶりはまざまざとしていた。めぼしいものはすでに売ってしまった  か、でなければ質屋であろう。二、三冊の本、仕込杖、煎餅布団、そういったものが主なものであとはがらくただけ。塗りのはげた手文庫があったが、そこにも見るべきものはなにもなかった。赤貧洗うがごとしの言葉通りの生活であったらしい。
「死体の懐中にはなにもない。つまり、彼が持っていたはずの金も、モトの家から奪った香炉のふたも消えているということだ。ふたのほうは押し入った壮士のだれかに渡したとも思えるが、金は……犯人が残しておいてはまずいと持ち去ったのだろう」
「使ってしまったのかもしれない」
 と、私はいった。
「小銭もないんだよ。洗い浚い持っていったとしか思われない。彼がかくしている可能性はないね」
 天井裏も床下も無駄だった。床の揚蓋の下の父はぐじゅぐじゅと湿って、人が下りたら足跡が必ずつくが、そこにはなんのあともなかったのである。
「面白い。ぼくははじめて事件に魅力を見出したよ。これまでのところでは、ぼくはせいぜい助言にすぎなかった。だが、出入口の閉されているなかでの殺人事件とは……」
 サミュエル・ホック氏はひとりごとのようにつぶやいた。これまで冷静さを決して失わなかった彼が興奮するのを私ははじめて見た。

8、とぐろを巻いた紐


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