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新選組・残照
4、 丁稚奉公

5、 本田覚庵


 歳三が丁稚奉公に失敗した翌年の弘化三年(一八四六)六月末、多摩地方を襲った豪雨が増水
し土手際の土方家を濁流に納屋を流され、母屋までも流れに呑まれそうになった。それを見かね
た村人総出の作業によって家屋を分解し、川辺から離れた地に移築してことなきを得たが、この
時、わずか十二歳の歳三の積極的な指揮と行動は、喜六が驚くほど的確で無駄がなかった。歳三
としては短期間ではあったが丁稚奉公で厳しく仕込まれた仕事に対する真剣さで対処しただけで、
何ら特別なことをしたという思いはない。
 移築された家での生活がどうやら落ち着いたときに、喜六が言った。
「歳には、とんでもない才能があるかも知れん。大作と一緒に学問でもやってみるか?」
 学問となると土方家は適任者には困らない。
 歳三は兄大作と共に、親戚の漢方医・本田覚庵に弟子入りして書道の手習いを始めた。
 書道も俳諧も先祖代々からの土方家の家風の一つで、歳三の生まれる以前、まだ存命だった父・
義諄も、村人の子弟を集めて手習いの教室も開いていた。
 歳三が生まれる以前のことだが、玉川上水道掛かりの江戸幕府勘定方だった大田直次郎という
役人は、仕事で多摩に来る度に土方家に寄って宿泊するのを常としていた。父と直次郎は飲食を
共にし、一緒に狂歌を作ったり四方山話を楽しんだりして時を過ごしたという。
 大田直次郎は、土方家の座敷の床の間にあった浮世絵や水彩画の中から、狂歌でも著名な清水
頑翁と名乗っていた書家の源師道の筆による画を見つけて激賞し、さらに客間の襖絵が著名な東
牛斎こと吉田蘭香によるものだったことに驚き、「どれもこれも価値がある物ばかりだな」と父・
土方義諄の名画蒐集の眼力に感心し、「わしのも値が出るぞ」と冗談めいて扇子に狂歌と絵を描
いたという。
 それから二十年余の歳月を経た先年、それを見て「是非、売ってくれ」と知人が申し出た額が
目の玉が飛び出るほどだったので、それほど執心ならと気の毒に思った兄の喜六は「喜んで進呈
した」と客に語っているのを歳三は聞いたことがある。
 喜六は、父が集めて家の中や蔵に積んだ書画骨董や武具などを大切にしたが、親しい間柄の者
が欲しいと言えば、「大切にな」と口にはするが決して「惜しい」とは言わない。
「どんな品でも蔵の中で埋もれるよりは、喜んでくれる人の手許がいい。それで利を得るのを望
まないのは、農作物と石田散薬から得た収益で地道に暮したいからだ」
 喜六は周囲が驚くほど無欲だった。
 その狂歌を残した太田直次郎という役人が、巷で知られる蜀山人という粋人であることを歳三
が知ったのは、書道の師でもある本田覚庵から聞いたからだ。覚庵は、歳三の父の妹キンの養子
だから歳三とは義理の従兄弟の間柄になる。
 本田覚庵も大の蜀山人贔屓で、その作風以上に人柄に惚れ込んでいた。
「わしも子供の頃、石田村の土方家で、その蜀山人さんに何回か会ったことがある」
 幼い頃の覚庵の印象では、大田直次郎は酒好きの初老の下級役人で、狂歌や風刺画で一世を風
靡した蜀山人と同一人物だとは誰も気づかなかったという。
 歳三と大作の書の師・本田覚庵は、多摩川の川向こうの下谷保村の名主だった。覚庵は、江戸
三筆で知られる米庵(べいあん)の開いた米庵流(べいあんりゅう)の書を教えていたが、先祖
は将軍の馬を診る獣医だったが今は結構知られた漢方医でもあった。
 歳三より一回り以上年長の覚庵は、蘭学もやり歌も詠み、世事にも西洋事情にも詳しい博識の
士だった。歳三は兄の大作と共に覚庵に弟子入りしてから隔日で通うことになり、本田家では覚
庵の従兄弟にあたる二人の子供の来訪を大いに歓待し、月謝をとらない上にお菓子やお小遣いま
でくれた。こうして覚庵は日頃からお互いに気兼ねがない歳三ら兄弟を可愛がってくれた。
 歳三は、ここでみっちりと漢詩や書を学んだ。この覚庵の家にはいつも各地から訪れる友人知
人が寝泊りしていて、なかには知られた人もいた。医者仲間などもよく泊っていた。
 佐藤泰然という覚庵の友人は、歳三と大作に西洋の文化などを教えてくれた。西洋では蝋燭の
代わりに鯨の油を使うこともここで知った。しかも、西洋にはエレキという動力が出始めており、
それが鯨の油の代用だけでなく、あらゆる分野で使われていることも知った。
 その佐藤泰然とも親しい代官の江川坦庵も、世情調査の忍び旅で多摩に来ると、本陣や代官陣
屋を避けて、手代で護衛役の斉藤弥九郎と共に時折覚庵宅に寝泊まりしていた。そんな時はよく、
歳三ら兄弟と一緒に書を学ぶこともあった。五十近い斎藤弥九郎より幼い歳三のほうが書の筋が
いいと言って坦庵が笑った。
 家族と来客全員での食事のときに覚庵が、「この歳三は剣術が大好きでしてな」、と言うと斎
藤弥九郎が歳三の頭を撫でて真顔で言った。
「将来、剣術をやるなら江戸に出て九段の練兵館に来なさい。倅の新太郎に任せているが、いつ
でも道場に泊れるように伝えておくからな」
 歳三が頷くと坦庵が口を添えた。
「これでもな、このオヤジは江戸で三指に入る剣術の名人なんじゃよ」
 疑わしそうな目で歳三が弥九郎を見ると、覚庵が笑いながら言った。
「いつか、江戸に行って息子の新太郎と立ち会ってみるといい。勝てば土方一族の名誉だからな」
 歳三は、九段の練兵館と斉藤新太郎の名を頭に刻み込んだ。

 覚庵の家に通うと、さまざまな人に出会えて楽しく、知識も豊富になってゆく。
 ただ、少々通うのに難があった。多摩川の洪水で川筋が変わり、かつては土方家から近かった
石田の渡船場が日野の万願寺の渡しに移ったことで、すぐ目の前の対岸に渡るのに一里ほどは歩
かねばならない。それでも、村人の生活の知恵で、水の少ない時は川面に覗いた岩から岩に板切
れを並べてその上を渡った。だが、雨で増水すると板が流され渡るに渡れなくなる。そんな時、
幼い歳三は迷わずに水が苦手の兄の手を引いて上流に行き、そこから斜めに急流を横切った。
 水中に身を入れた二人は多少流されはするが、歳三が兄の手を離さずに足で石を探って早瀬を
巧みに渡渉して行く。それを担庵らが感心して見送り、対岸の河原に上がった歳三が振り向いて
手を振ると、手を叩いて褒めるのを常としていた。


6、 ミゾソバ(溝蕎麦)刈り


添付ファイル: filekaiundou.jp_ssg_005.jpg [詳細]

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