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先生方の作品集

最 期 の 根 付

作 篠原景

 まだ陽は昇らぬが、もはや提灯はいらなくなった青白い道の上に、男が一人倒れている。
 道の左右には、一膳飯屋や下駄屋、荒物屋といった、町内の者ばかりを相手にするような小さな店が軒を並べているが、いずれも戸を閉ざし、皆、寝静まっている様子であった。
 倒れた男の周りには、徐々に血溜りが広がっていく。しかし男はまだ息絶えてはいなかった。
 喉から声にならぬ声を漏らしながら、最後の力を振り絞り、手を伸ばしていた。

 嘉永四年、江戸神田皆川町。秋の朝陽が家々の軒を白くささくれ立たせている。
 八丁堀同心、坪倉源右衛門は、「こりゃあ……」と呟いたきり後は絶句して、冷たくなった男の体を見下ろしていた。
 父の跡を継ぎ町方となり、見習いの頃から数えるともう二十年近くにもなろうとしていたが、こんなのは見たことねえや、と思った。
 時が、まるで凍りついたようなのである。
 死に際の苦悶や恐怖がありありと浮かんだ顔、というのならば、幾度も見てきた。
 だが、上等な着物を着て俯せに倒れた初老のその男は、大きな目でまっすぐに前を見据え、右手を力強く伸ばしている。力尽きたのが嘘のようだ。
 みなぎる男の意志がそのまま凍りついたかのような場を、黙って見下ろしていた源右衛門は、しゃがみ込んで男が手を伸ばしている先を見た。
 そこにあるのは、木彫りの猪の根付であった。頭が大きくずんぐりとした猪が、藪をかきわける姿で彫られている。少々荒々しい彫り跡が、表面に塗られた漆で、より際立って見える。
 根付のすぐ横には、根付をくるんでいたのではないかと思われる藍色の袱紗も落ちていた。
 源右衛門は男の体を手早く検め、男を死に至らしめたのは刃物による胸への一突きであること、懐の財布には手がつけられていないことなどを確かめると、手先の卯平を振り返った。
「仏さんの身元は、すぐに分かったのかい」
「へえ。最初に見つけたのは、そこの荒物屋の婆さんで、悲鳴を聞きつけて飛び出してきたのが息子なんですが、息子が偶然顔に見覚えがあったそうで。すぐに番屋から店に報せが行き、駆けつけた番頭が確かめたって次第だそうです」
 奥州屋長兵衛というのが、死んだ男の名であった。日本橋岩附町の薬種問屋の主である。
「番頭は、旦那様、と呟いたきり、腰を抜かしちまって、番屋で寝かされていやす」
 そう言って、源右衛門より少しばかり若い手先は肩をすくめた。
「ようやっと落ち着いてきたようで、さっきちょいと話を聞いてめえりました」
「奥州屋から来たのは番頭一人か」
「へえ」
「長兵衛の身内はどうした」
「女房は報せを受けた途端、倒れちまって。息子が一人おりやすが、商いの向きのことで江戸を離れておりやして、三日先まで戻らねえ予定だそうです。まあ、使いはやるでしょうが。後は結構な顔ぶれの親戚連中がごちゃごちゃおりやすようで、じきに誰か来るかもしれやせん」
「ふむ、調べるべきことは多そうだが……」
 気になるのはこれだ、と、源右衛門は袱紗にくるんで懐に入れた根付を着物の上から軽く叩く。
「とりあえず、番頭の話を聞くか」
 不安げにこちらを見ている近所の者たちを横目に番屋に入ると、予め同心が来るのを告げられていたらしい番頭が、畳の上に膝を揃えて待っていた。源右衛門を見て深々と頭を下げる。
 源右衛門は、番頭のすぐ近くに腰を下ろした。
「顔を上げてくれ。そのほうが奥州屋の番頭であるな」
「正八と申します」
 振る舞いはしっかりとしていたが、頬から目にかけて紅潮しつつも、全体的に青ざめた顔は、四十を少し越えた頃だろうかと思われるその男の、激しい動揺と憔悴ぶりを源右衛門に伝えた。
「少しばかり話を聞きたい」
「はい。わたくしで分かりますことであれば……」
「かの男は、そのほうの勤める奥州屋の主人、長兵衛に相違ないか」
「はい。相違ございません」
「ではまず……」
 源右衛門は懐から、しまったばかりの袱紗と根付を取り出した。
「これは長兵衛のものか?」
「えっ、あ……」
 突然、予想外のことを聞かれ、番頭は面喰らったようだったが、源右衛門の差し出したものに眉を寄せて顔を近づけた。
「……袱紗は、旦那様が使っていらしたものとよく似ております。根付は、初めて見るものでございますが、旦那様のものではないかと存じます」
「どういうことだ」
「あの……、昨日はいろいろとありまして……。順を追ってお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
 昨日、源右衛門が奥州屋を出たのは昼過ぎのこと。供は連れず、まず向かったのは神田平永町にある瀬戸物屋、手嶋屋のところだという。手嶋屋の主人、清七とは旧知の仲で、先頃、清七の末娘の嫁入りが決まったので、その祝いの品を自ら届けに行ったのだ。
 手嶋屋にいたのは、おおよそ一刻くらいと思われ、その後、長兵衛は、近くの岸町に住む根付職人、為五郎の元へ、頼んでいた根付を受け取りに行ったはずだ、と番頭は述べた。
「詳しいな」
「はい、旦那様はいつもおでかけになる前に、私に予定を事細かに告げていかれます。帰ってからは、その日お会いになられた方なども。お店の方で急なことがありましたときに、いつでも旦那様を探せるようにとのお考えからです」
「ほう……。供はあまり連れて歩かぬのか」
 奥州屋ほどの店ともなると、大抵は供を連れて歩くのが普通である。源右衛門の怪訝そうな顔色を読んだ番頭は、大きく息を吸い込んだ。
「仰ることはごもっともでございます。まず話さねばならないのは、主人、長兵衛の物の考え方というものでございました」
 居ずまいを正し、番頭は遠い目をした。
「人に与えられた時は限られている。人はその時を大切に、大切に使わねばならないというのが旦那様の口癖でございました。ゆえに、人手が必要で奉公人を連れて行った方が良い、あるいは、連れて行った方が奉公人にとって学ぶべきことがある、と判断された時以外は、お一人でおでかけになるのです」
「ほう、だが遅くの一人歩きとなると物騒ではないか」
 今回は、懐中物に手をつけられていないことから違うだろうが、長兵衛のような者が一人歩きをしていれば、金目当ての者の目に留まっても仕方がない。
「旦那様は若い時分、護身のための稽古を少々されたとかで、多少の夜歩きは……。それに昨日は、お帰りが遅くなる予定ではございませんでした。ええっと、根付職人の家へ向かうところまで話しましたでしょうか」
「そうだ」
「根付職人のところに寄りましたのは、手嶋屋さんのついででございまして、その後、昨日の一番の用事でございました、井筒屋さん……、関口町にございます鋳物問屋、井筒屋さんのご隠居の、還暦のお祝いに向かわれたのでございます」
「どこぞの料亭か」
「いえ、井筒屋さんのところでございます」
 井筒屋の隠居は、最近ずいぶんと体が弱ってきており、祝いも、内輪で簡素に行うことにしたのだと言う。
 隠居は長兵衛の母方の叔父であり、本来夫婦で祝いの場にいるべきであったが、折悪しく長兵衛の女房は風邪気味で、万一うつしでもしたらと、長兵衛一人で行くことになったらしい。
「はい。それから後のことは、井筒屋さんからの使いに聞きました話なのですが、祝いの最中、ご隠居が急に具合を悪くされたそうです。とりあえず寝かされたご隠居は、ひどく心細がって、旦那様の手を握られていたそうで……。あっ、旦那様は、ご隠居にだいぶ可愛がられた甥だそうですので。そこで旦那様は、手前どもの方へ、ご隠居が落ち着き次第帰るとの報せをよこしたのでございます」
 とりあえず話すべきことは話したと思ったのだろう。番頭の体からみるみる力が抜けていくのが、源右衛門にも分かった。
 番頭はまだ知らないが、荒物屋の女が最初に見つけたとき、長兵衛は事切れてそんなには経っていないようであったらしい。
 叔父の具合が落ち着くのを見届けて、夜明け前の道をいそいそと家路を急ぐ男の後ろ姿が見えた気がした。
「……最後に一つ尋ねるが、長兵衛がわざわざ直接、為五郎とかいう職人の家に行ったのには、何か子細があるのか」
 根付のような細工物は、注文品であっても、小物問屋などの店を通すのが普通である。
「あの……そのことが、旦那様の亡くなられたことと何か……?」
 最後の最後に聞かれたことで、今にもまた寝込みそうに見えた番頭が、戸惑いを顔に浮かべた。しかし、源右衛門が、
「どんな小さなことでも、一通りは聞かねばならぬでな」
と、手を振りながら答えると、納得したようで、丁寧な説明を返してよこした。
 為五郎というのは、好事家を唸らせるような凝った細工をする職人ではないのだが、長兵衛の知り合いが縁あって親しくしている男らしい。知り合いが使っている根付に長兵衛が目を留め、自分もそのような根付が欲しいと言うと、その知り合いは快く為五郎と長兵衛を引き合わせたそうだ。
 そこで長兵衛は、前から欲しいと思っていた意匠を、為五郎に頼み、後日取りに来ると伝えたのだと言う。
「相分かった。また後で聞くことがあるやもしれぬ」
と番頭に言い残し、源右衛門は番屋を出た。そして、野次馬たちから十分に離れたところで手先の卯平に小声で話しかけた。
「手始めに、番頭の言っていた通りかどうかを調べなきゃなんねえのだろうが、お前はまず、根付職人の為五郎とかいう奴のところへ走ってくれ。そこで、長兵衛が根付を頼んだところから、詳しい話を聞いてくるんだ。為五郎に少しでもおかしなところがあったら、急いで知らせてくれ」
「へえ」
「あと、これからいろいろ調べる最中、猪吉でも藪中某でも、この際、根付之助でもいい。ちっとでもこの根付とつながりそうな奴はいないか、気にかけてくれ。あの長兵衛という男、この根付で何かを言い残そうとしたように思えてならねえんだ」
 卯平が去った後、源右衛門は、眉間を指でぱんっと弾くような朝陽に目を細めながら、大きくのびをした。
 事件は事件であるが、日頃それに関わることを務めとしている町方同心に、当事者のような緊迫感はさすがにない。
 さて、これからどうするかと考える頭が、いまいちはっきりしないのは、昨晩夫婦でつまらぬ口諍いをして、寝つきが悪かったせいかもしれなかった。
 時が凍りついたような長兵衛の死に様が頭にこびりついており、一刻も早く何が起きたのかを明らかにしたい、という気持ちはある。
 だが、根付、根付と口の中で呟きながらも、どこか朝ゆえの億劫な気持ちを消せずにいるのも事実で、時を惜しむ男だったという長兵衛に叱られそうな気がした。

 十日後、奥州屋長兵衛を殺した人間が捕らえられた。
 長兵衛殺しとして捕らえられたのではない。夜道で、夜鷹蕎麦売りに包丁で襲いかかったところを、近くを通りかかった若い男の三人連れに取り押さえられたのだ。
 捕まったのは、左官職人の男で、名を豊太といい、腕っぷしが強く、三人連れの男たちも少々手こずったようだ。
 どうにも人を殺したくなっちまって。
 豊太はそう話したと言う。夜鷹蕎麦売りを襲う前に、酔って座り込んでいた古傘買いを傷つけており、厳しい取り調べが進むなか、最初に包丁を振りかざした相手として、長兵衛のことを吐いたのである。
 豊太の住まいは、長兵衛が倒れていたところのすぐ近くであった。
 朝起きたら、男が歩いているのが見えて、何となく。
 それが長兵衛を襲った理由だという。
 長兵衛が抵抗したので、僅かの間、揉みあったが、多少心得はあると言っても、長兵衛の敵う相手ではなかったようだ。叫び声を上げる間もなく胸を突かれることとなった。
「為五郎でないばかりか、猪吉でも、根付之助でもなかったな」
 役目を終えて帰って来たばかりの屋敷で、卯平を相手に酒を飲みながら、源右衛門は溜息混じりに呟いた。口許に浮かんだ苦笑いを酒で湿らせる。
 縁側の卯平は、虫の声を背に、困ったように肩をすくめた。
「長兵衛の奴ア、これで、何かを伝えていると思ったのだがなあ……」
 奥州屋に返しそびれている根付に目をやる源右衛門の脳裏には、長兵衛の死に顔が、はっきりと焼きついたままでいる。
 しばしの沈黙の後、卯平が口を開いた。
「番頭も言っておりやしたが、為五郎っていうのは、腕は悪くありやせんが、別段、評判になるような職人でもございませんで……」
 卯平はまた肩をすくめる。唐突な切り出しであったが、長年の手先の話しぶりに慣れている源右衛門は先を急がせない。
「為五郎は、根付が出来上がり次第、奥州屋に届けると言い張ったそうでございやす。わざわざ足を運ばせるのは申し訳ねえと」
 だが長兵衛は、こちらもかなり頑固に断ったのだという。為五郎が店に来ては不都合だからではない。
 ——お前さんの根付をね、私は心底気に入っているんだよ。この広いお江戸にはね、同じような気持ちになる人が大勢いるはずだ。だからお前さんは、余計なことをせずに根付を作り続けなくっちゃ。なに、奥州屋の店はね、私一人の力で動かしているんじゃない。私なんぞがお前さんの時を、徒に盗めないよ。
「根付を受け取りに来たときも、長兵衛はそりゃアいい笑顔をして、差し出された根付を壊れものにでも触るように袱紗に包んで、懐にしまったそうです。家に帰ったらじっくり眺めさせてもらうと……だから……その……」
「長兵衛は死に際に約束を守ったというのか? まさか」
「へえ……」
「いくらなんでも、今にもお迎えがくるってえときに」
 言いかけた源右衛門だが、思い浮かんだ光景があった。
 夜明け前の道。寝静まった家々。助けを求める声はもはや出ない。出来ることは何も、ない。
 ——人に与えられた時は限られている。人はその時を大切に、大切に使わねばならない。
 奥州屋の番頭の声が蘇る。
 今にも事切れようというとき、長兵衛の目に映ったのは、懐から落ちた根付。
 家に帰ってからじっくり眺めるつもりだった根付。
 源右衛門は、根付を手にとり、彫られた猪を正面から見た。猪の黒い目が、長兵衛の見開かれた大きな目と重なる。
 夜気が、急に体にしみてくる。甲高い虫の声のように、的確な鋭さを持つ寒さだ。
「こいつア、寺にでも納めた方がいいかもしんねえな」
 口をついて出たのは、そんな言葉だった。

                    了


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