Welcome Guest 
メインメニュー
サイト内検索
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
[ リロード ]   [ トップ | 一覧 | 単語検索 | 最新 | ヘルプ ]

Counter: 5280, today: 3, yesterday: 3

先生方の作品集

大連・旅順紀行

桐山 健一

 僕は人生で幾度か満州、大連そして旅順と言う言葉を聴いてきた。
この言葉はずっと以前逝った祖父母、学生時代の友人の母そして漱石の作品等である。それはある時は歴史の夢物語であったり、ある時は哀しい歴史の物語でもあった。
僕はある日突然「2009年9月3日から四日間大連。旅順にいけるか?」と電話を受けた。友人が取材を兼ねて行く予定をしていた相手が行けなくなった、その代わりであった。僕は多くの海外旅行をしていたが、この地はまだだった。僕は数日考えているうちに、この地は是非旅して、この目で見ておかなければならないという強い意志に変わった。

 海外旅しなくなって数年が経つ。僕はヨーロッパをほとんど旅した時、体力や気力に少し不安を感じ、もう海外旅行は終わりにしていた。幸いパスポートは有効期限が来年6月まで残っていた。当日朝、僕は4時半に起きると晴れていた。僕は5時に家を出ると、成田空港に向った。大連へは3時間半で、時差は一時間ある。12時15分に大連空港に着くとインフルエンザの流行もあって、入港手続きは長引いた。僕がやっと手続きを終え外に出ると、現地案内人の少し小太りで目の大きな趙さんが人懐こい笑顔と流暢な日本語で迎えてくれた。彼はわざわざ手帳に自分の趙という名を書いてくれた。碁をやっていた僕は、あのプロ棋士の趙さんを想い出し、親近感を覚えた。彼はバスに乗ると、寄り集まった日本人客20数人の車内でジョークを交え語り始める。
「皆さん大連という名はどうして生まれたか知ってますか?」
「日本人が付けた」
「違いますね!これはロシア語から来ています。ロシア語で“ダーリン”は遠い所という意味です。ロシア人にとってはここは極東の遠い地方だったのです。一方、中国ではこの地方を東北地方と言います。今、日本の会社が1500社来ています。大連の特徴は五つあります。
(1) 大連港は北東アジアで一番の貿易港です。」
年間取り扱う量は、横浜港と同じ数量です。ここの港はかつて日本人が作ったそのままの港です。1945年から25万人の日本人の引揚者がここから帰りました。
(2) アカシアの街
5月初旬はアカシアの花が街中で満開です。
(3) リンゴの街
ここから旅順に向う農家にリンゴの樹々が連なっています。農家は貧しい生活を強いられています。農家はリンゴ収入を副収入としてリンゴ栽培をしています。リンゴの工場があり、リンゴチョコレートを作っています。
(4) 真珠の街
ここから旅順に向う海岸沿いで真珠を養殖しています。
(5) 中国で一番美人の多い街です。
ここはかつて白系ロシア人が支配していた土地で、その血筋を引く女性が多くいます。身長170センチ、色白でスタイルの良い女性が多く、ファッションモデルやサーカスでたくさん活躍しています。
 この地の男性が、これらの美女に愛を誓う言葉があります。『海の水が枯れても、石が腐っても、僕の心は変わりません』皆さんよく分かりますか?」

 バスは1981年5月にできた北大橋手前で止まり、僕らは大連港が一望できる橋を徒歩で渡った。そこからバスは、約10分で大連大連港の老虎灘公園に着き30分の自由見学をした。暑さで少し疲れた僕は、海岸の岩陰に腰を下ろし、波の音を聞きながら海から吹き寄せる潮風に心地良い一時を過ごす。対面の赤茶けて切り立った岩肌に白波が漂っている。一組の恋人が僕の近くの岩に腰掛ける。しきりに笑顔を作りながら話しかける細面の女性に、男は彼方の水平線を見つめながら頷いている。僕は彼らが見つめる水平線の彼方を見た。僕はふとこの水平線の先にある黄海そして東シナ海、その先にある日本を想った。旅して一日もたっていないのに郷愁を感じる。突然、僕の心に百年前の人々の苦痛の心が重なった。当時の理想を求めた青年達の苦しみのことば詩を、波頭の音色に感じた。

 バスは中山広場を過ぎて、大連迎賓館に着いた。ここは日本南満州鉄道株式会社が1909年〜1914年に建設した欧風のホテル、大和旅館そのまま、文物、保護建築として今も使われている。結婚式場、著名人の接待等に使われている。かつて中曽根、竹下そして村山首相もここで接待された。僕は赤い絨毯が敷き詰めた由緒あるという部屋で、コーヒーを注文した。一口口に含み目を閉じる。中国の詩の言葉が頭をかすめる。「青年老いやすく…」
バスが混雑する大連駅近くのホテルに着くと僕はシャワーを浴び、ベッドに横になった。どれくらい眠っていたか定かでない、ベッド脇の電話が鳴っている。電話を取ると趙さんが、夕食に迎えに来たという。僕は小型バスに乗る。数人の日本人観光客を別のホテルで乗せたバスはかつて日本橋と名付けられ、今は勝利橋と言われる橋を渡る。人で賑わう天富大酒店に着く。丸テーブルを囲む席に座る。点心から始まり、次々と回転テーブルを賑わす品々、堅いものが食べられない僕はマーボードーフや粥、スープをたしなんだ。周囲の人々の食欲を見ながら、僕は青島ビールを飲む。帰り道、満月が出て空は星で輝いている。趙さんは帰り、寄り道してかつて満鉄の日本人が住んでいた豪華な一戸建ての住宅街に立ち寄った。尖った屋根の彼方に満月が寄り添っている。今は共産党の要人や退役した軍人等が居住しているという。町中のざわめきから解放された僕は、まるで違う世界に来たような錯覚にとらわれる。趙さんが話す。
「ここでは愛人が沢山います」
「ここは愛人を持てるような金持ちなんだ」
趙さんは月の光に笑顔を作りながら、手を横に振る。
「皆さん、大きな勘違いしています。皆さんは愛人というと奥様以外の恋人のことを思うでしょう。中国では奥さんのことです」
「アッハハハ…」
静かな住宅街に笑いの声が響く。
バスは街中へ向う。
「趙さん、やっぱり今の中国は共産党員はお金のある人が多いのですか?」
「そうですね、共産党員でないと重要な地位につけませんから」
「趙さんも共産党員ですか?」
「ハイ、私も外語大学を出て共産党員にはいりました。この国は共産党員と軍人が大切な地位についています。」
「どれぐらいの人がいるのですか?」
「共産党員は約一千万人。軍人は四百万人います。」
「歴史を紐解くと、昔は中国の要職はほとんど漢民族がにぎっていた。科挙という官史の登用試験に合格した優秀な漢民族が唐や隋王朝の統治に貢献した。僕は趙さんが話した共産党員一千万人は漢民族で、彼らの上級官僚がチベットやウイグル自治区でも統治していると思う。『歴史は繰り返す』という諺はいつの時代もあるものだ。」
皆の視線は声のする中程の席に集まる。彼は黒フレームの眼鏡をかけ、細面の知的な容貌の紳士である。
「Aさん、素晴らしい洞察力をお持ちですね。僕はまだ三十代で若いから気がつきませんでした。でも中国の僻地へ旅するとAさんの言われてることよくあります。」
「趙さんも漢民族ですか?」
「僕は四川省の農村地の出身です。この地で生まれたら大学に合格しないと出世できません。僕は小さい頃から勉強はできました。母は口癖のように家の祖先は漢民族で昔は偉い人だったと言っていました。」

 翌朝、モーニングコールの電話で目覚める。カーテンを開けると青空が拡がっている。屋上のレストランに行くと、いろんな国々から観光客がテーブルを囲んでいる。いろんな国の言葉が飛び交っている。空いたテーブルは食べ残しの皿やコップで塞がっている。
僕は窓脇のテーブルの皿とコップを隣のテーブルに移し、バイキングの食物を置いた。大連駅の周辺は高層のホテルがある。見晴らしはよいが下の方はスモッグで霞んでいる。中国は何回か旅したが、大連市の特徴は街が綺麗でゴミが落ちていない。地上にいる時は空気も良いと思っていたが、少しは汚れている。僕らは八時にバスで旅順へ向った。大連から50kmで約一時間かかるという。バスが市外へ出ると、海岸と農地が広がる道路を走る。右窓に低い山の傾斜にたくさんの樹木が並んでいる。それはリンゴの樹である。しばらく走ると、高層のホテルのようなビルが数棟そびえる。左窓には入り組んだ湾が拡がる。趙さんはマイクを持ち説明する。
「このリンゴの樹は、青森でリンゴ栽培のNPOをやっておられる日本の方が、本当にボランティアでこちらの農民に栽培技術を教えてくれました。日本のODA基金でリンゴジュースを作る工場を作り、そこでリンゴチョコレートも作って貧しい農民の経済的助けをしてくれています。一方、こちらのホテルのような建物は真珠生産をしている人々のものです。日本のミキモトって真珠の会社は、こちらで技術指導して合弁の真珠会社を作りました。」

 旅順市に入ると、一見ヨーロッパにきたような観を与える。アカシアの街路樹が整然と続き、綺麗な建物が並ぶ、これは上級軍人達が住んでいる建物である。銃を持った警備兵が立っている基地のような所へバスは入る。趙さんはバスを降りて、窓口で手続きを取っている。やがてバスは少し急勾配の坂道を上がって行く。この先に203高地の跡地がある。高台に着く、趙さんは、ここから歩いて40分ほど歩けば203高地に登れるという。僕はこの旅に誘ってくれたN氏と観光用に舗道された道を歩く。
「当時はこんな道はなく、この山の側面を匍匐前進で多くの兵隊が仲間の屍をのり越えて203高地へ向っていったのでしょう。」
「今日は晴天で旅順港がはっきりみえますね。趙さんの話では、大抵の日は霧がかかっていることが多いという話でした。」
「僕はふと思った。百年前漱石が『それから』を書いた頃、日露戦争が終わった後だった。」
「そうですね!大逆事件が生じ、幸徳秋水が死刑になり、思想統制が厳しくなりだした。漱石の『明暗』では、小林という社会思想をもった青年が津田から古いマントをもらい、希望を求め満州に行く場面があります。」
「この頃から、多くの青年達が国内の息苦しさから逃れ、この地が自由の大地だという、そんな風潮があったのですかね!」
「百年前、一万七千人の青年達が死んでいった。彼らの死は目前にして真実なにを想ったか…」
「僕もそんなことを考えていました。この地に来るまでは全く考えも及ばなかった心です」
山道を左折した正面に薬莢(やっきょう)の形をしたロケットの発射台のような塔が聳えている。
「…203mの高地と呼ばれたのは、この高地が海抜203mの高さがあるからである。ここは日露戦争中においてロシア軍後方防衛隊の西側の最高陣地であり、日本軍が死傷者約17000人あまりを出したことによって、やっとこの高地を攻め落としたのである。日本第三軍司令官の乃木希典の次男、乃木保典がこの戦いで戦没した。戦いが終了した後、乃木大将がこの高地を『爾霊山』と名付けたうえ『記念塔』を建てた。」
趙さんが来ていた。
「この山は Er Ling shan (アーリン シャン)、日本語で(あなたのたましいの山)の意味です。乃木大将ははこの塔を『爾霊塔』と名付けました。」
「『爾霊搭』は何で作られていますか?」
「この地を占領した後、乃木大将は兵隊にこの地の戦争で使われた薬莢を拾わせ、それを溶かしてこの搭を建てました。」
「この地で17000人もの日本人が戦死しましたが、ここにそんな価値があったのですか?」
「日本軍はここを占領した後、皆さんがもう一方の尾根で見た砲台を使いました。280ミリ榴弾2254発を含め、大砲60台余りで一万一千発以上の無差別砲撃を旅順港に打ち込んで、ロシア海軍を撃破しました。」

 僕は爾霊山から、今は青くキラメク旅順港をしばし眺めていた。僕は高台のバス駐車場に戻った時、ひどく疲れたような気持ちになった。バスは水師営會見所に向った。僕らはこの地で昼食の郷土料理を食べた。會見所は赤土の中に当時のままの茅葺の屋根に苔の生えている平屋で白い土壁の家屋が保存されていた。僕は家屋に入った。部屋は薄暗く右側の部屋には、当時の白黒の古い写真が展示されている。中央に、日本の戦勝会議後の日本とロシアの参加者が撮った写真がある。ガイドの女性の話を聴く。この写真は會見所正面の右側にある、アカシアの樹木の下で撮った。ステッセル将軍が乃木大将よりずっと背が高かったのに、何故乃木大将がステッセル将軍より高く映っているか?乃木大将が高い椅子に座ったからだという。僕はこの写真を直視した。対照的な様相を表した写真は、放心したように目を瞑っているステッセル将軍とその上で目を輝かせ威厳に満ちた乃木大将が映っている。
趙さんが左側の部屋で当時の会談が行われた状況を説明するという。僕が部屋に入ると、中央に長方形の古い木のテーブルがあり、両側に長い木の椅子が二つある。ここは何の飾りも無い殺風景な薄暗い部屋である。
「皆さん、ここが日露戦争終結後、両軍の将軍が会談した部屋です。この部屋のテーブルも椅子も当時のままです。私が話している壁側に戦勝国の日本、反対側にロシアの人々が座りました。ここは、戦争中は日本軍の野戦病院に使われていました。おそらく、この木のテーブルも戦場で傷ついた人々の手術台になっていたかも知れません…」
 
 僕は外に出ると眩しい陽光に目が眩むイ。赤土の庭の右側にある。百年前記念写真を撮ったというアカシアの樹木を見た。會見所を出た正面に、当時の写真の複製品や絵葉書を売っている店がある。入り口正面は女性を描いた掛け絵が並んでいる。僕が見ていると、女店員がこれはあの有名なリコウランですという。僕は自分の美の感性に触れた一人の女性を見た。
「この人は川島芳子さん、実際この方は中国人でした。『男装の麗人』と言われ、当時の日本の兵隊さんに人気があったそうです。これ安いですよ買っていきませんか?」
僕らは百年の、大きな歴史の行く末を見つめてきた由緒ある大地を後にした。僕はいつの間にか眠っていた。
「皆さん、お早うございます」という趙さんのマイクの音で目が覚めた。車窓は小雨で霞んでいる。彼はもうすぐ今日最後の見学地、西海公園に着くという。ここは大連市民の憩いの場である。波止場から三キロの長い歩道が延び、その先にいろんな店舗が入った高層ビルがある。一時間の自由時間、僕は人の少ない波止場に向って歩いた若いカップルの群が霧に煙る波止場を歩いている。人、人、人…この国は人が多いと肌で感じる。

霧の大連港

     大地から霧に煙る海岸から
     人が湧いてくる
     老若男女
     寄り添って語り
     笑顔で笑い
     波止場で
     霧に煙る海をみつめる
     潮騒の音は
     民の声と合奏する

     ボーボー…
     汽笛は
     僕の時空の中で
     一点の時を刻む

 趙さんはバスの中で明日の予定を言う。金洲の南山古戦場、提督府そして響水寺と歩く時間が多いという。彼は疲れた人の足壷を中心とするマッサージがあるという。このマッサージは薬草を用いた、古来からの用法で身体の芯がほぐれるという。僕は受けることにした。夜、N氏と迎えのタクシーでマッサージ治療院に行った。若い女性の治療師に迎えられた。部屋に入るとNo.17という目のパッチリした女の子に迎えられた。上着を脱ぎ治療着に着替える。僕は洗面器に入った薬草に足を漬け、首と肩をマッサージされる。それが終わると、マッサージ用ベッドにうつぶせになる。足は薬草にクリームが丹念に塗られる。親指から一本一本丹念にマッサージされる。終わると、足裏のツボ、ふくらはぎといつの間にか、僕は宙に舞っているような夢見心地になり眠っている。腰の筋肉がピリッと反応する。僕は彼女の名前を聞いた。彼女は「セブンティーン」と答える。僕は身体の各部のパーツが一つ一つ分解され、きれいに整備されたような気持ちになる。全部終わると、僕は半身を起こし薬草を飲む。
ベットを降りると僕の身体は軽い。ロビーでお金を払い終わると、日本語の流暢な女の子が近寄ってきて「あなたの胃、肺は少し弱っている。食事に注意して風を引かないようにしなさい」と助言する。

 翌日、雨が降っている。僕の身体は軽く青春時代に戻ったような快活な気持ちになる。バスは一時間三十分で金洲に着く。僕は傘をさして泥道の南山古戦場まで歩く。小高い森の中を30分歩き、海の見える丘に立つ。古いプレートがあり、中国語で記されている。趙さんの説明では、日本軍は旅順を攻める前、ここから上陸して戦った。ここでも7000人近くの戦死者を出した。日露戦争の後、満洲事変が起こった。この時、正岡子規は従軍記者としてこの地にきていた。彼は結核になり提督府でしばらく休んでいた。その時、彼を慕う松山の知人が宴席を設けた。その時、子規が詠んだ句が句碑として寂れた土壁の庭にひっそり立っていた。

     金洲城にて           

  行く春の 酒をたまはる 陣屋かな
                           子規
                                                                                                      完


XOOPS Cube PROJECT