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先生方の作品集

養老の滝紀行

作 桐山健一
 

 僕は物心ついた頃、おばあちゃんの養老の滝の物語を何度も聴いた。
「貧しいお百姓のまじめに働いている青年が、ある日山菜を採りに行って山奥の道に迷い込んだ。 水の音がするので、そこに行くと滔々と滝が流れている。彼はこの水を滝から瓢箪に入れて持ち帰った。貧乏で好きな酒も飲めない父にこの水を飲ませると、それが美味しい酒になっていた」

 年の瀬のテレビ番組、養老駅が大正8年5月建築された古い木造駅、駅内には当時から千歳楼ホテル経営する喫茶店が今も開店していると放映された。
僕の物心の想い出と、テレビの古い駅舎が心で重なり、天候のよい日に訪ねようと思った。12月30日、暇になり天候も夜まで持つという。僕は小さな旅に出た。大垣でJRを降り、一階の養老線に乗り換える。この駅はひなびた駅である。養老駅まで400円の切符を買う。車体の赤い電車は近鉄のイメージを残している。運行は一時間に二本である。四両の電車が停車している。僕は二両目の電車に乗る。乗客は3人、僕の相席に恰幅のよい同年代の人が乗車して座る。僕は彼に話しかける。彼は僕の旅のことを知って、気さくに答えてくれる。
「あんた東京からきたのかな!」
「分かりますか?」
「僕は65年頃、慶応大学に行っていたのでな」
「僕もそのころ早稲田にいました」
僕らは当時の学生時代を懐かしく語った。突然ガタンと電車が動く。僕は養老の滝までの道程を尋ねる。
「養老駅から歩いて行こうと思います」
「一時間半はみとかんとな。年の瀬は人がいない。暗くならないうちに滝から帰らないといけない。今の季節山道は暗くなるとアッという間に闇がきて危ない」
車窓は濃尾平野の褐色の大地を流す。電車が止まる。
「君ここだよ!気をつけて」

 僕がホームに下り立つと、二人の女性が僕の前を歩いて改札口に向う。僕は切符を渡し若い駅員に、養老の滝への道を尋ねる。
僕は駅正面の道を真っ直ぐ上がる道を歩き始める。両側に民家が立ち並ぶ。右手の郵便局を過ぎると、十字路にクロスする国道がある。桜道地下道と書かれた標識の下に降りて対面の道に出る。梢の揺れる樹木が山道の先まで並んでいる。殺風景なこの景色は、春は夢見るような桜トンネルに変わるのだろう。誰もいない冬の桜並木を歩き続ける。左側に「子供の国」がある。右側は遊園地になっている。少し疲れ、トボトボ歩きながら空を見上げる。イワシ雲の下を鳥が飛んでいる。沈黙の大地に「カア、カア…」カラスの鳴き声は、心に不気味な雰囲気を醸し出す。風をきって一台のセダンが走り抜ける。時計の針は3時10分、もう40分歩いている。上を見ると回りくねった坂上に橋が見える。僕は自分の歩調を取り戻し、歩き続ける。行き先は分かっていても、人一人いない道を歩き続けることは、こんなにも不安を起こさせる。僕は橋に辿り着き、「養老の滝」の標識を見た。広い駐車場に車が一代止まっている。

 僕は川に沿って、滝へ歩き始める。山小屋のような店の前をおじいさんが落葉を掃いている。
「養老の滝まであとどのくらいですか?」
「15分です」
時計の針は3時50分を指している。渓谷に流れる水の音が心に響く。僕は心が開放されていくのを肌で感じながら、渓谷に沿って歩いている。笑い声が響き、二人の男女が下りてくる。静寂が戻った時、突然視界が開いた。僕の正面は、轟音とともに山頂から降っているような水飛沫をあげた滝が現れた。右手に岩に阻まれた小道がある。小道をよぎると、僕は冷たい滝の風圧を感じる。水彩画の世界が広がる。滝の水面に、三脚に設置したカメラの黒いフードの中でしきりにシャッターを切っている人がいる。フードから顔を出した男は、まだ若い青年のような細面の人だった。どちらからともなく挨拶する。彼はフランスに住んでいる日本人カメラマンである。僕は養老駅から歩いてきたというと、驚いたように手を広げる。
「ヨーロッパにはそういう人をよく見ますが、日本にはいないのではないですか?」
彼は写真に大きな影響を与える採光をしきりに気にしている。僕は彼が撮っているプロの撮影を見ているうち、一つの作品を造る苦闘を垣間見ているような気持ちになった。明日、フランスに帰るという彼は、別れ際二つ折りでお守りのような細長い名刺をくれた。「Naohiro Ninomiya」と記されて、裏にフランス語の住居が入っている。

 僕が養老の駅に辿り着いた時、時計の針は5時を指している。僕は若い駅員のNさんと、この駅の由来や近況を聞いた。二年前までこの養老線は近鉄だったが、今は第三セクターに経営基盤が移行された。N氏は近鉄から出向社員だという。彼と話していてこの線のユニークなことは、誰でも自転車と一緒に乗車できる。僕はこの駅の雰囲気に、メルヘンの国を訪ねた旅人のような気持ちになった。

 夕闇の養老駅を電車は静かに離れる。僕は、ガリバーが夢の国を離れる感傷的な心になる。僕は駅員のNさんからもらった「養老観光ガイド」を見る。

親孝行の昔話
昔、この美濃の国に貧しいけれど親を敬い大切にしている樵が住んでいました。毎日山に上り薪を取ってそれを売り、年老いた父を養っていましたが、其の日暮らしに追われて、老父の好む酒を充分に買うことが出来ませんでした。
或る日いつもよりずっと山奥に登りました。谷深くの岩壁から流れ落ちる水を眺め、“あ!”と老父の喜ぶ顔を思い浮かべた時、苔むした岩から滑り落ちてしまいました。しばらく気を失っていましたが、ふと気がつくと何処からか酒の香がただよって来るのです。不思議に思ってあたりを見回すと、岩間の泉から山吹色の水が湧き出ているのです。これはどうしたことだろうと掬ってなめてみると香しい酒の味がするのです。夢かと思ったが、“有難や天より授かったこの酒”と腰に下げているひさご(ひょうたん)に汲んで帰り老父に飲ませたところ、半信半疑であった老父は一口飲んで驚き、二口飲んで手を叩いて喜び、父と子の和やかな笑い声が村中に広がりました。…やがて都に伝えられ、奈良の都の元正天皇は“これは親孝行の心が天地の神々に通じてお誉めになったものでありましょう”…と年号を養老と改められ、八十歳以上の老人に樹階や恩寵があり、孝子節婦を表彰され、此の地方の人々の税を免除なされました。(古今著聞集より)」

 目を上げると、車窓は漆黒の闇に包まれ、遠くに小さな灯がポツンポツンと流れていく。


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