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先生方の作品集

シチリアの日本人女性画家・ラグーサ玉    

作 桐山健一

 僕はかつてフェニキア人に興味を抱いた時、四千年前に、彼らが交易し彼らの植民地にしたというシチリア島を訪ねた。聖アントニーノ教会の壁にかかっている『キリスト昇天祭』の絵を見ていた。

 夜の祭典で、パレルモの海岸沿いの遊歩道の、にぎわいが描かれている。画面の右手は暗い海と、その彼方に黒々と浮かび上がるペツレグリーノ山が、右手には、人々でごった返す遊歩道がある。遊歩道には街灯があり、明かりが列になって、港の奥に向って伸びている。それ以外で、数ヶ所で焚き火がたかれていて人々がその周りに集まっている、闇は暗く人々の顔は見えない。海の彼方の灯台から一条の光が差していて、画面を右から左に横切っている。その光に照らされて浮かび上がっているのは、驚いたことに山羊や羊の群である。この群の海辺に、祭壇のようなものが設けられ、人々が列をなしている。海上にはボートが点々と浮かび、遠くには大きな船があって、海上をサーチライトで照らしている。画面の中央に色鮮やかな気球が浮かんでいて、華やかな雰囲気を醸し出している。左手の隅には、大きなアーチを持った城門のような建物と闇を黒々とたたえた木立がある。この全体的な暗い絵には、不思議にも祝祭のもつ華やかさが伝わってくる。

 ガイドは、この絵の作者は、ラグーサ玉という日本から初めてこの地に来た女性の画家だと説明した。彼女は江戸末期にこの地に来て、画家として多くの作品を残しているという。僕はそれ以外のこの女性画家の経緯について何も分からなかった。旅を終えて、僕はラグーサ玉という神秘的な女性を調べた。『シチリアの春』(竹山博共著 朝日叢書)という本の彼女の詳しい経緯が載っていた。

 「結婚前の名は清原玉 1861年(文久元年)江戸の芝新堀生まれ。父は増上寺の差配。当時玉の家は植木屋もしていて、庭園を開放していた。
ヴィンチェンツオ・ラグーサ(1878年17歳のとき、工部美術学校の教授として彫刻を教えに日本にきていた)はその庭園を眺めている時、扇に花鳥画を描いている少女(玉)を見かけた。
ラグーサは、玉に西洋画を教えようとしたが、玉は見知らぬ画法を受け付けようとしなかった。そこで彼は、一計を案じて、一つがいの鵞鳥を持って来て玉の家の池に放した。玉は喜び鵞鳥を写生した。こうして、彼女は写実の重要性を学んだ。

 玉はやがてラグーサからデッサンを学ぶようになり、彫刻のモデルになった。彼は日本の工芸品に興味があり、広く買いあさっていた。その整理のため、玉に絵を依頼した。彼は絵が出来上がると、その裏に工芸品の来歴を書き込み整理した。こうして二人は親しくなり、1880年には二人で京都・奈良まで旅行した。

 1882(明治15)年ラグーサが帰国する折、玉は一緒にシチリア島のパレルモに、姉の千代、夫の栄之介夫妻と同行した。上流階級の住んでいたフォーロ・イタリコの家に落ち着いた。玉はパレルモ大学で、ロ・フォルテ教授から裸体画を学ぶことになった。そして夜は、夜学でイタリア語とデッサンを学んだ。 ロ・フォルテは若くしてローマ留学をして学び、フレスコ画で評判になった。1837年28歳でパレルモ大学の裸体画講座の教授になった。そして絵画的解剖学を構成する骨と筋肉の科学を伝授した。

 一方ラグーサは一計を案じ、日本からもってきた大きな箱110個分の工芸品の展覧会を催した。日本の工芸品の優秀さが認められた。この成功を手掛かりに、美術学校設立に奔走し、帰国二年後の1884年私立の美術学校を開校した。玉は日本画の教授となり、姉夫婦は漆器科を担当することとなった。この学校は人気を呼び成功した。そして、パレルモ市立美術学校となった。その後もシチリアの人々の人気は衰えず、高等工芸学校に昇格した。1889年漆器を担当していた姉夫婦は、原料がイタリアにないため、取り寄せて学校用に使うことができなくなり帰国した。ラグーサは校長になり、玉は副校長になった。玉は夫唱婦随でラグーサに尽くしていた。当時、玉の絵はよく売れた。

 1885年、パレルモでコレラが流行した。病の勢いは凄まじく、一日数百人の死者を数えることもあった。この時、ラグーサは、三百人の青年を集めて『緑十字救護団』という団体を組織し、死の危険もかえりみずに病人の看護、運搬死者の埋葬にあたった。この救護団に加わった青年の多くが、コレラに感染し、死んだ。文字通り決死の行為であった。この費用捻出のため、ラグーサは日本から持ってきた工芸品13箱を、ローマのキルグリーノ博物館に売り渡した。また玉も、着物、浮世絵、錦絵などを売り払い、その他にもせっせと新しく絵を描いて、画商に売り渡し、まとまった金が出来たら、それを無名で救済費の中に寄付した。玉はまた直接的行動にも出ている。

 “私はこっそり家を出て、近所の病家を見舞ってやりました。若い息子達をみんな避病院に取られた寄るべのない老人、母の死んだのも知らず、その乳房に啜りついて泣いている乳児… 目も当てられない惨状でした。私はそれらの家を訪ねては世話をしましたが、金持ちが道楽半分にするのだと反感もかいますけれど、正真正銘の同情でお世話をしますと、それが先方へもよく通じますし、かえって気の毒がって、しまいには先方から私の加勢にまで来てくださるようになりました。 もうこうなると私が外国人であるというようなことは、全然問題になりません…  コレラの救護の手助けをしてみると、人間には、日本人も外国人もない、服装と生活習慣を除いたら、みんな同じなのだという気が心から致しました。”

 翌1886年、コレラの流行は収まり、ラグーサは救助活動の功によって、功労銀勲章を授けられた。また玉は匿名で寄付がわかり、1888年功労銅勲章が与えられた。1927年3月13日ラグーサは、86歳の大往生だった。 この時玉には、“日本に行きたかったなあー” “私はせめて遺髪ぐらいは日本の土に埋めてやりたいものと思いまして、早速50年ぶりで日本に帰る決心をしました。” そこで財産を処分し、日本に帰る方法を相談するため、玉はローマの日本大使館を訪ねた。ところが大使館員は賎しいものにでも対するような、侮辱的な態度で玉に接し、“お前はイタリア人と結婚したので日本人ではない。ここでは何の世話もできない”と彼女を追い返した。 玉の心は深く傷ついた。玉は展覧会に絵を出す時、背景に牡丹、藤などの日本の花をあしらい、著者も日本語で入れていた。“少しでも日本というものが、欧米に認識せられる助けになるようにと念じたからです。そして日本人であることの誇りの中に生き、日本人の名を辱めないようにと、半世紀の海外生活に思い続けてきたのに、日本人ではないと言われたので、もう私は断然、日本人とは絶縁しようと決心しました。”

 それから彼女は、エレオノーラ・ラグーサという欧米文の署名だけを絵に入れるようになった。
“私はシシリイに寄る辺もなく、たった一人で、絵筆に沈黙の日々を送りました。こうした日が五年続きました”
1931年日本で玉の展覧会が開かれ、玉の画業も知られることになった。
“今まで、どこの展覧会にどんな大作を出しても、ちっとも認めてくれなかった同胞は、私が祖国を立ってからちょうど半世紀して、私の画筆がようやく老いて来てから、初めて、そんな女もいたかという事を知ってくだすったのです”
と語っている。姉の息子、繁次郎の娘初枝(16歳)が1932年単身でパレルモにやって来て、玉の帰朝をうながした。ほとんど日本語を忘れている玉のため、二年間パレルモに滞在し、イタリア語を勉強した。

 玉は1935年10月帰国した。52年間のイタリア滞在であった。玉は芝新堀の生家に落ち着き、アトリエで絵画ざんまいの生活を送った。夏には軽井沢に滞在して風景や花を描いた。~1939年4月5日、玉は脳出血で倒れ翌年未明他界した。玉が倒れた朝は、時ならぬ春の大雪で、玉は眠るように、夫の待つ世界に旅立った。

 晩年の玉と親しかった貴族の婦人談話“ダニーノという店で調理済みの食べ物を買いに行きました。この店はポリテァーマ広場に面したルッジェーロ・セッティモ街の角にありました。夫人はとても無口な人で、自分で話すより、人の話を聞く方が好きでした。自分を自慢するようなことは決して言わず、自分自身への評価も口にしませんでした。仕事を愛していて、絵が生活の中心でした。イタリア語はとても上手で日本語を忘れてしまったほどです。夫人は文字通りの淑女だったと思います。知的で繊細でとても良い性格の人でした。近所では皆に好かれていました。”
彼女は日本に帰国する時絵を何点か寄贈した。私立近代美術館・ピトレ民族博物館・シチリア祖国歴史協会等である。」(『シチリアの春』朝日叢書より抜粋)

 僕はシチリアへ旅しなければ、永遠にラグーサ玉という心に響く画家とも出会わなかったと思う。当時、僕がシチリアを旅した主なる目的は、ほとんど歴史資料として残っていないフェニキア人のいた場所を、自分の目で確かめる旅だった。僕はたまたま神秘的なラグーサ玉の絵に出会い、心が彼女の残した魂に導かれ、ラグーサ玉を調べるに至った。僕は半世紀にわたる玉の人生の歩みを読んで、当時の日本女性が持っていた凛とした、誇りや人生観を、心の深いところで実感した。

 僕は玉の持っていた日本人の誇りの中に、ショパンが祖国を想っていたのと同じような心を感じた。コレラが流行った時、玉は本気で人々のいのちを救おうと身の危険も省みないで、身を粉にして働いた。玉が心に抱いていた人間愛は、人々の心を打った。
玉は「…人間には日本人も外国人もいない。服装と生活習慣を除いたら、みんな同じことなのだという気が心から致しました。…」と語っている。
僕は子供の頃、疎開先で明治生まれのおばあちゃんに世話になった。彼女は気骨のある女性で、人の話をよく聞いてくれたが、決して迎合したりなじったりせず、彼女の真意を短い適切な言葉で優しく話す女性だった。
150年前のラグーサ玉のように、かつての日本の女性は品位があり、気骨のある人が沢山いた。

 今はエロ・グロ、ホラーにしか興味をもたない日本の世相である。僕らはかつて、いのちをかけて、品位や気骨を持って生きた先人たちに、学ぶべき時だと思う。
                         完


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