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大原幽学
40、忍びの里‐5

第九章

1、人の情け−1

 早朝の土山宿は旅籠を出る旅人と、それを送る人々の声で賑わっていた。

 宿を出た旅人は、京路は西に、鈴鹿峠を越えての伊勢路は東へと、それぞれの目的の地を目指して旅立って行く。左門と田島主膳も、孝次郎、佐助、咲など家族や奉公人一同に見送られて旅籠・松阪屋を出立した。

 佐助の声に振り向くと、手を降る佐助と咲の姿が朝もやの中におぼろげに見え、その背後に見えるはずの鈴鹿の山々は白い霧に包まれて視界から消えていた。左門は軽く手を振っただけで、すぐ視線を元に戻して主膳に続いて足を早め宿場の賑わいの中に入った。

 長細く続く宿場の軒下には、道具屋、めし屋、古着屋、薬屋、刃物屋などを商う店が軒を並べていて、あちこちから旅人に声をかけてくる。

 やがて、宿場を過ぎると松並木が続く。

 左門が心細げに周囲を見た。この道を再び戻って尾張の地を踏むことができるのか……

その左門の心の揺れを読んだのか、主膳が前を向いたまま言った。

「これからは、何かあったら必ず京の九条家にくるんだぞ」

「でも……」

「なんだ?」

「九条家といえば、関白の地位にもあって三千石の高祿をはむ五摂家筆頭の高貴なお家柄ですね?」

「その通りだ」

「でも、九条家の位は一条家より下ですか?」

「それは遠い鎌倉時代の話じゃ。藤原氏北家嫡流の兼実公から出て、九条に屋敷を建ててことから九条殿と呼ばれたのだが、一条家も二条家も九条家から出て五摂家となった。五摂家は、それぞれ朝廷内に仕えて権勢を振るったが、今は九条家が栄華をきわめとる様子だな」

「これからも繁栄しますか?」

「いや、栄枯盛衰は時の運、この先のことは分からん。今の当主の輔嗣さまは、わしと同年じゃから話が合うから、わしを呼んだんじゃろ」

「そのご長男の尚忠さまが、いま十六歳なのですね?」

「何で知ってる?」

「以前、田島さまから聞いています」

「そうか、わしが話したか?」

「聡明なお子だそうで、ぜひ会ってみたいですね」

「なぜだ?」

「公家衆の若者までが、本当に鎖国派なのか知りたいのです」

「それは、どうでもいいことだ。いずれは攘夷か開国かはっきりする」

「わたしは開国派ですが、お公家さんの殆どは外国嫌いの攘夷派ですね?」

「いや、彼らの本音は、実際にはどちらでもいいのだ」

「なぜですか?」

「鎖国だの攘夷だのと言って、憂国の士を気取ったところで、所詮は、この混迷の時代に咲いたあだ花……いずれ時が過ぎれば、何もかもが泡沫のように消えるだけじゃよ」

「田島さまは、まつりごとには興味がないのですか?」

「興味はあるさ。いくら公家や硬骨な武士どもが尊皇攘夷を叫んだところで、開国は時代の流れだ。外国船の渡来を阻止はできん」

「その九条家の主は、尊皇攘夷ではないのですか?」

「攘夷派の旗頭だが、攘夷などは絵に描いた餅じゃ。わしが説教してやる」

「素直に耳を貸しますか?」

「武器の優れた異国人と戦うんだ。わしの話ぐらいは聞くさ」

 主膳が左門の顔を覗くようにして、真面目な顔をした。

「ところで才次郎。おまえはどうせ勘当された身だ。命を捨ててみろ」

「命をですか? この前は捨石になれ、と言われましたが?」

「生きようと思うと迷いが出る。死のうと思えば身も心も軽くなる」

「でも、まだ十八ですよ?」

「若い命だからこそ、捨て甲斐があるというものだ」

「意味がわかりません」

「ま、何事も死んだ気になってやれ、ということじゃよ」

「それなら、分かります」

「これから迷いが出たら、それを思い起こすことだな」

 前野の村を抜け野津川の橋の手前で主膳が足を止め、街道脇の岩に腰を下ろした。旅人が休息しやすいようにか自然なのか、橋の両側に大きな岩が散在している。宿を出てまだいくらも歩いていないから、疲れ休みではないのは明らかだ。

「才次郎、あれを見ろ!」

「なんですか?」

 目線の先に、老婆を背負った貧しい旅姿の女がゆっくりと歩いて来るのが見えた。その肩にすがるようにして老いた百姓姿の男がよろめきながらついて来る。鈴鹿方面から上がった秋の朝日が正面から女の顔を照らすから、女の額を濡らす汗がキラキラと光った。

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「年寄り二人を連れての鈴鹿峠越えか……大変だな」

「着衣の汚れがひどいですから、きっと長旅の帰路ですね?」

「京か? 夕べは水口宿泊まりで夜明け立ちかな?」

「だと、すると、かなり疲れてますね?」

 三人が橋を渡るのを待って、主膳が岩に座ったまま優しく声をかけた。

「遠い旅路でお疲れのようじゃが、どちらからかな?」

「はい、奈良から京都をまわって津に戻ります」

 老婆を背負った女は二十路半ばであろうか、その疲れ切った顔に似合わず明るい声で主膳に頭を下げて応じた。女の肩につかまって歩いて来た男は崩れるように岩に座った。

「水でも進ぜよう」

 主膳が腰から水入れの革袋を外すのを見て女があわてた。

「お気持ち嬉しく存じますが、水は持っていますで」

「峠越えに持っている水は貴重だ。ここは遠慮するな」

「もうすぐ土山の宿ですから」

「そこまでに倒れたらどうする? すごい汗じゃないか」

 主膳が、すぐ隣の岩に腰を下ろした男を無視して女の背の老婆を見た。

「どうだ,水を飲むかね?」

 背の老婆が頷いたのを見て、主膳が女に言った。

「お婆は水が欲しいそうだ。少し休んで行きなさい」

 今度は素直に頷いた女が、ゆっくりと腰を折って老婆を下ろし、岩に坐らせた。

「お言葉に甘えます。ご親切に済みません」

「礼には及ばぬ。喉を癒して一休みすれば元気も出よう」

「でも……」

 女が懐中から出した手拭いで汗を拭いながら遠慮するのを、主膳が諭した。

「水不足は疲れを呼ぶ。我々はこの谷川から汲むから心配は要らん」

 主膳から手渡された竹筒の水を、老婆が喉を鳴らして旨そうに飲み干した。それを嬉しそうに眺めている女の喉が、唾を飲み込んで動いたのを左門が見た。

 主膳が言った。

「才次郎、お前も水を上げなさい」

 左門が、恐縮する女に竹筒を渡すと、女は「有り難うございます」と言って、自分は口もつけずに、岩に腰を下ろして荒い息を吐いている老いた男に竹筒を手渡した。

 誰にともなく

「有り難う」と言って男は水を一滴も残さずに一気に飲んだ。

 それを嬉しそうに見つめる女の喉がまた動いた。喉が乾いているのだ。

 女のために水を汲みに行くのも変だから、と主膳を見ると、主膳は背の風呂敷から油紙の包みを取り出し、それも老婆に渡している。

「宿で貰った握り飯だ。どこぞで食べなさい」

「とんでもねえことです。もう、お水を頂いただけでも有り難いことでして」

 主膳が左門を見た。その目は明らかに

「握り飯も出せ」と言っている。

 左門も仕方なく、荷の中から握り飯を取り出して遠慮する女に手渡した。

 老女が言った。

「見知らぬお武家さまのお恵み、有り難くお受けします。おらたち親子は、このご恩をけっして忘れはしねえです」

「親子?ってことは、こちらは娘ごか?」

 親子と聞いた主膳がまじまじと三人を交互に見た。年齢差が大き過ぎて、どうみても親子には見えない。水を飲んで元気が出たのか老いた男が口を開いた。

「お武家さんが戸惑うのも無理はねえです。この子は養女なもので」

「養女か? ならば歳の差も納得じゃ」

「おらは、連部村の伝蔵といいますだが、おらたち夫婦は体も弱く子供もなく、寂しい老後を覚悟してただが、村の長老の口利きで、この娘、トセが六歳のとき、財産も何もない我が家に養女に来てくれて、子供のときから食事や洗濯など家事全般はおろか、病弱なわたしらがお伊勢参りや温泉めぐり、熊野詣でにも二人の面倒をみてくれてるです」

「結構なことだな」

「おらたちは、これで一生幸せで死んでいけるだが、二十六になるこのトセが、ただただ働きづめで、嫁にも行けず婿も来ず、こうして過ごしてるのが心残りで……」

 老夫婦が涙ぐむのを、トセが交互に背をさすったりして慰めている。

42、人の情け‐2


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