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大原幽学
41、人の情け‐1

42、人の情け‐2

 山々を包んでいた深い霧は低い雨雲だったのだ。

 街道の松並木の梢も路傍の草花も冷たい秋風に揺れている。岩に腰掛けた三人の中で、口だけは達者だった伝蔵という老人の顔色が冴えない。本来は美貌であろうトセの顔にも疲労が色濃く影を落として、やつれた顔をさらに暗くしていた。

 主膳がその横顔を見つめて言った。

「トセさん、と言ったね?」

「はい」

「伝蔵さんの五臓六腑が、かなり弱ってますぞ」

 主膳の問い掛けに、ぐったりと岩に寄り掛かって目を閉じていた老人が閉じていた目を見開いて気丈に応じた。

「少し疲れただけで、どこも悪くはねえですだ」

 主膳は長年の経験で、伝蔵という老人がかなりの重病であるのを見抜いていた。

 娘が言葉を継いだ。

「父は肺の臓を病んで二年前に一度死に損なっています」

「それはいかん。無理はできんな」

「でも、どうしても死ぬ前に奈良の大仏さまと京の街を見たいというもので……」

「そうか、覚悟の上の死出の旅だったのじゃな」

 主膳が、流れる雲を見上げてトセに言った。

「なにやら雲行きが怪しくなった。その荷では蓑も雨合羽も持たんようじゃが?」

「じつは……」

 伝蔵がトセに代わって答えた。

「昨夜は水口で宿をとるつもりでしただが、三雲の村はずれで三人組の追剥ぎに襲われまして……」

「追剥ぎに?」

「わしらは百姓夫婦に娘一人、持ってるものは全財産だと言いましただが……」

「そんなことで止めるぐらいなら追剥ぎはせんじゃろう?」

「刃物を突きつけられ、着替えも金も雨具や土産、何もかも奪われましただ」

「ケガはなかったか?」

「わしらの目の前で、やつらはトセを押し倒して手込めにっしようとしただが、婆さんが〔娘を犯すなら、わしからやれ!〕と、泣きわめいて体を投げ出したで……」

「どうした?」

「興ざめした顔で姿を消したです。これで命拾いをしましただ」

「なるほど、彼らの気持ちも……いや、娘を思う親心が危機を救ったのじゃな。金銭や荷駄はともかくケガもなくて何よりじゃった」

「はい。そう思って諦めておりますだ」

 主膳が左門を見た。

「才次郎……」

「はい」

「お前は急ぐ旅でもない。この人たちの面倒を見る気はないかね?」

「と、言いますと?」

「このお年寄りを連れて山を越えてみろ、と言うことじゃ」

 左門が振り向いて、霧にかすむ鈴鹿の山を見た。

「峠越えですか?」

「いやなら、止めてもいいぞ」

「私でやれますか?」

「これも、世直しの一歩になるかも知れんからな」

「それもそうですが」

「土山宿の松阪屋で雨合羽と飯を用意して、駕籠が呼べれば背負わなくてもいいぞ。そのぐらいの金は惜しくもないだろ?」

「駕籠は無理でしょう。朝一番で旅立つ客が駕籠を奪い合っていましたから」

「ならば仕方ない。おまえが背負って山を越えるしかないな」

「私がですか?」

 主膳が立ち上がって娘に言った。

「トセさん。この才次郎……いや、大原左門を預けるから、安心してお帰りなさい」

「何から何までご親切に、ありがとう存じます」

「お二人さんも達者でな」

 立ち上がった主膳は、伝蔵夫婦にも労りの言葉をかけ、渋る左門の肩を「頑張れよ」と笑顔で叩くと、橋を渡って後をも振り返らずに西に向かって立ち去った。その小さくなってゆく主膳の後姿を見つめながら左門が立ち上がった。

「仕方ない。戻るとするか」

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 やむなく自分に言い聞かせた左門は、背の荷物を老人に背負わせて屈み、「さ、遠慮なくつかまりなさい」と、力なく休む老人を叱咤して背負い、ゆっくり歩きだした。その後を老母を背負ったトセが続く。

 左門が背後を向いてトセに短い言葉を投げた。

「土山の宿で一休みするぞ」

 それだけ言うと左門は口をつぐんだ。年上の娘に話しかけるのが苦手なのだ。

 だが、左門の背に揺られる年寄りは黙っていない。すでに体力は尽きていて歩く力は無い様子だが、何かを喋りたい衝動がその口を開かているのか、か細い声で左門の耳元に話しかけてくる。

「誰かに、おらの気持ちを知ってもらいたかっただが、それが、こんな若いお侍さんになるとは、思ってもいなかっただ」

 左門は老人の語りかけを無視した。これからの長旅を思うと、背中越しの会話に神経を使うのを考えると気が重いのだ。が、百姓の爺を背負って歩くなんて信じられねえことですだ。なぜ、こんなに親切にしてくださるだね」

 左門は黙っていた。自分でも何故こうなったか理解ができない。(成り行きだから仕方がない)、若い左門には、好んで難事を引き受けるほどの義侠心はない。

 痩せた老人とはいえ背負って歩いているうちにずっしりと重くなる。振り向くと、トセが足元をよろめかせながらも遅れまいと必死でついて来る。左門の耳元では老人の声が続いていた。

「トセはわしらの宝でごぜえます。妾の子として生まれたトセは、生家にも疎まれて幼いときに養女に出され、その養女先からも口減らしに捨てられたのです」

 左門の視線の先に、松並木の彼方に人家が見え隠れしてきた。

「それで、身体の弱いわしら夫婦がところに養女に来てくれた六歳のときから、猫の額ほどの小作での田畑仕事から炊事洗濯、掃除に縫い物、両親の看病、その合間に近くの庄屋に奉公に出て賃金稼ぎと所の緒綾式にと寝る間を惜しんでの働きづくめで、近所でも評判の孝行娘と褒めそやされていましただ」

 いくら耳元で囁かれても幼い子供が家事を手伝うなどということは、左門には信じられないことだし関心もない。

「トセが14歳の頃だったか、わしら夫婦はもう医者にも見放されたで死出の旅にと、病をおして無理を言い熊野詣でにでただが、それで元気づいたのか奇跡的に命をつなぎ、その後も最期の信仰にと出掛けた善光寺詣でで命をつないで来ましただ」

 死にかけた病人が、長旅に耐えて命を永らえる? なおさら信じられない。

「トセがいくら働いたって、小娘一人の稼ぎでは細々と粟飯を食うのがせいいっぱい、わしら二人の療養にかかるお医者さんへの支払いもままならず、医者、庄屋さん、村の人たちからの借金だけでも溜まるばかり、積もり積もって二十両もの大金になり……」

「それで、どうした?」

 思わず声をかけた左門は、内心で(しまった!)と悔いた。この老人の峠越えまでが自分の仕事で、それ以外のことには触れるべきではない。案の定、老人は苦しそうな息の中で勢いづいたように話しを続けた。

「今から五年前の文化六年に、トセの孝養を庄屋さんが安濃郡奉行の平松喜蔵さまにお知らせしたことから藩主さまの耳にも入り、褒賞として金五両、米二十俵を賜りましたが、それも借金の返済の一部にあてただけで焼け石に水。その元はといえば松坂の金貸しに借りた医者への謝礼と薬代の一両だけ……その借用証書が地元の権蔵というあぶれ者の手に渡ったために、利息がかさんだ借金の取り立てに追われ、あちことから金を借りては返済するというイタチごっこの有り様で、暮らしに困窮する毎日に変わりはございません」

(ならば、なんで、そんな思いまでして大金のかかる旅をする?)

 この左門の素朴な疑問を見抜いたように伝蔵が続けた。

「借金の取り立てから逃れるのと、信仰に縋って何とか暮らし向きを建て直したいのと、行く先々の宿でトセが働かせて頂いて木賃宿の払いを稼いでいたのとで、この旅はやめられねえのでごぜえます」

 左門は、老人の話を聞き流したが、冷たい小雨が舞って来たのが気掛かりだった。

「二年ほど前には、お伊勢さん参りの途中でおらが肺を病んで倒れたときには、村ではおらが死んだという噂も出たらしいだが、こうして今日まで生きて、人の情けに触れて、もういつ死んでもいいですだ」

 左門にとって老人の死などどうでもいい。土山の宿に入ると茶店々などから「寄ってらっしゃい」の呼び声がかかり、旅籠・松阪屋も目と鼻の先に近づいている。

 旅籠・松阪屋の水を蒔いて清められた玄関前で佐助が待っていて手を振っている。

「お帰り。待ってただよ」

「私が戻るのを知ってたのか?」

「さっき、お咲さんが戻って来て、そう言ってただ」

「咲が? 気づかなかったな。そこに居るのか?」

「それを伝えに立ち寄っただけで、すぐ消えちまっただよ」

「どこに行った?」

「そんなの、おいらが知ってるはずねえだろ」

「それもそうだな。ちょっと世話になるよ」

「ゆっくり飯でも食ってきな。雨合羽、わらじ、にぎり飯の用意もできてるだよ」

 佐助が屋内に「お着きだよう!」ど叫ぶと、女中が濯ぎの水を運び、志津や孝次郎も姿を現して老人夫婦やトセに挨拶し、甲斐甲斐しく身のまわりの世話を始めた。

 トセが左門に近寄り、心配そうに耳元で囁いた。

「お金がありません。ここのお代、お借りしてもいいですか?」

「それは、私が払うから心配ない」

 それを聞きつけた志津が、トセに優しく語りかけた。

「ここは、この人の親戚みたいな家だから、無理を言ってもいいのよ」

「申し訳ねえだが、駕籠の用意はできなかっただ」

 佐助が、申し訳なさそうに頭を下げた。

43、人の情け‐3


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