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[先生方の作品集]]
太平洋年代記
長崎の春

第七章 国際的な視野で

3、場内

上海の恐ろしい夏がやって来た。ハクも熱帯のハワイ生まれなので、暑いのは平気な方だったが、ここの暑さは尋常ではない。籠ったような熱と湿気、そして臭い。ゴミの腐った臭いと汚物臭、そして何やら得体の知れないものの放つ臭いが入り混じって街中に立ち込めていた。特に風のない日は鼻をつまんで歩きたくなる。マネージャーのスミスもここの夏は苦手らしく一か月の休暇を取り、さっさといなくなってしまった。結局その間、ハクはこのリード商会の運営を引き受ける羽目になったのだ。
「まったく酷いもんだ」
ハクはこうつぶやく癖がついてしまった。何もかもが腹立たしいことばかりだった。中国人の苦力達はちょっと目を離せば怠けようとするし、欧米人の船員達はハワイ人のハクを見下して横柄極まりない態度をとった。それでもハクが歯を食いしばって堪えているのは、自分自身に対する意地もあったが、やはり給料が破格に良いことも大きかった。この半年で随分貯えもできた。欧米から来た出稼ぎの駐在員たちの中には女や酒、ギャンブルや阿片で身を持ち崩す者もいたが、ハクは自分を駄目にしそうなものからは注意深く身を引いていた。転落する時は一気に落ちるものだ。宿舎のある四馬路の界隈には娼館が立ち並んでいたが、ハクはいつも客引きの女達の前を足早に通り過ぎた。
「何よ!逃げなくてもいいじゃないよ!」
後ろから女たちが叫んでいるのをよく耳にした。

ある蒸し暑い夜だった。ハクが仕事場から宿舎である「ホテル・シーガル」のある角を曲がろうとした時、甲高い女の悲鳴が聞こえた。振り返ると大柄の中国人らしき男がピンクのチャイナドレスを着た小さな娘の手を引っ張っている。その娘は何度か通りで見かけたことがあった。この辺りの女にしては素人っぽいと言うか、あまり似つかわしくない風情の娘だったので妙に印象に残っている。
男は何事か激しく怒鳴りながら娘を連れて行こうとしていた。
「放っておけ…おまえには関係のないことだ」
頭の中でささやく声がした…と同時にハクの身体は弾かれたように、その二人がもみ合っている場所に向かっていた。
「どうしました?」
「走開(引っ込んでろ)! 」
男はハクを睨み付けて吼えた。
中国人にしては背が高く頭は丸坊主で頬に大きな傷があった。
娘はハクに向かって英語で助けを求めた。
「ヘルプ!」
ハクがとっさにその男の腰のあたりに体当たりすると男は仰向けに地面に転がった。娘は手を振りほどいて通りの反対側に逃げ、数人の女達が娘を守るように取り囲んだ。
男はゆっくりと立ち上がるとハクを睨みながら何やら悪態をついていたが、とても敵わないと思ったのか、娘を指差して怒鳴った。
「阿拉会得记牢侬额、侬只婊子!」(おぼえてやがれ、この売女!)
ハクには意味がわからなかったが、多分「おぼえていろ!」というような意味だろう。
男が路地裏に消えると娘が駆け寄って来た。
「Thank you!」
娘は英語で礼を言うとハクの手を握った。
「おっと…礼には及ばんよ。それより怪我はないか?」
「大丈夫!」
娘は笑顔で答えた。
見ればまだ十六、七だろうか?口元の辺りに幼さが残っている。なぜこんなところで働いているのだろう。
「俺はハクだ。名前は?」
「ソン・ワンイ(宋婉儀)よ。イーイー(衣衣)って呼んで」
「イーイー?かい」
「そうよ。ハクさん、私と一緒に夕食を食べてください」
イーイーの英語は片言ながらもわかりやすかった。
「夕食?家族がいるのかい?」
「はい、母と祖母と弟がいます」
「で、家はどこなんだい?」
城内です」
娘は「Inside the castle(城の中)」と云った。
「城?ってどの…ああ、あの城壁の向こうか!」
ハクはマネージャーのスミスから「絶対に行かないように」と言われていた城壁があるのを思い出した。その中は中国人だけの世界で、こちら側よりもさらに猥雑極まりないと聞いていた。しかし、ハクの好奇心は留めようがなかった。思い返せばこの上海に来て半年になるが、中国人たちとは仕事で触れ合う以外何の接触もなく、彼らの生活の実態など何も知らなかった。
「では、夕食をいただこうか。案内をお願いするよ」
イーイーはうれしそうにハクの腕を取り歩き始めた。
「こっちです」
ハクと娘は一旦黄浦江の方に向かうとバンドを右に曲がり、フランス領事館の前を横切り河沿いに南の方に向かった。
イーイーの話によれば先ほどの男は集金係で、彼女の払った『みかじめ料』が少ないと文句をつけ、断ると暴行しようとしたらしい。
「自分の上前を余分に取ろうとしたんですよ。今度親分に言いつけてやります」
イーイーの綺麗な目にはその時だけ怒りの炎が宿った。
「おお!あれが城か!」
目の前に現れた城壁を見てハクは声を上げた。それはハクが思っていたよりも大きな城壁だった。高さは七、八メートル、石組みもしっかりしており充分な防御力がありそうだ。そのまましばらく城壁沿いに歩くと門が見えてきた。イーイーは門を指差して言った。
「East gate(東門)」
門をくぐるとそこは別世界だった。狭い路地に人が溢れ、肉を焼く匂いや生臭い魚や嗅いだことのない香辛料の臭い…そして、甲高い売り子たちの声。しかし、ハクはその喧噪の中に不思議な心地良さを感じていた。
「ああ、これがこの国の人たちの真の姿なんだ。今まで見ていたものとは違う」
イーイーはハクの前に立ち「こっち」と路地裏を指差し、しばらく行くと「ここ」と立ち止まった。長屋のような建物の入り口を抜けると中庭があり、数組の住人達が立ち話をしていたが、ハクとイーイーの姿を見ると皆口を閉ざした。彼らの身なりは粗末で子供を背負っている女もいる。しかし、イーイーが彼らに何かを言うと、人々はぞろぞろとハクの周りに集まって来た。口々に何かを言っているがハクには全くわからない。
「大丈夫、あなたは味方だと言ってあるから」
イーイーは笑いながら奥の木戸を開けた。
剥げかけた青い色の大きなテーブルを囲んで三人が座っていた。中年の女性と十五歳くらいの少年、そして一番奥には老婆がうずくまるように頭を垂れていた。イーイーの家族はハクを見ても驚く様子もなく、魂のない人形のよう虚ろな目をしたまま座っていた。夕食…といっても、粥と漬物、青菜を炒めたもの。そして揚げたパンのようなものが食卓に並んでいるだけだったが、誰もが無言だったのでハクは自分が来てはいけない場所に来てしまったような気まずさを感じていた。するとイーイーの母親が手を組んで祈り始めた。ハクもあわてて手を組んで祈りに加わった。食事が始まるとハクはイーイーに尋ねた。
「君たちはクリスチャンなのかい?」
「はい、私たちは神を信じています」
中国人のクリスチャンは初めて見たので、ハクは興味津々だった。
「じゃあ、日曜日には教会に行くんだね」
「いいえ、私たちは神を信じていますが欧米の人たちの教会とは違います。Taipingをご存知ですか?」
「Taiping?」
どこかで聞いた名前だった。「Taiping…Taiping」と頭の中で言葉を転がしていると不意に思い当った。マネージャーのスミスが以前言っていた「Taiping rebellion※」という言葉だった。(※太平天国の乱)
ハクの頭の中には「太平天国の乱」は「現在の政府に対する農民たちの反乱」という理解しかなかったが、実際は宗教的な組織による反乱だったのだ。そしてさらにイーイーが云うことには、彼女の父親は未だに反乱軍の一員として戦い続けているらしい。この春、天京(南京)が危うくなったのでイーイーたち四人だけでこの上海に逃げて来たのだと云う。
「それで生活に困って、私が働くしかなくなったのです」
イーイーはここまで話すと感極まったのか激しく泣き出した。
ハクは困惑した。自分は彼女を助けたが、彼女の家族の面倒まで見るつもりはなかった。しかし事情を知れば知るほど何とかしてやりたい気持ちが強まって来る。
すると、イーイーの母親が重い口を開いた。
「私たち、隠れている。役人来たら終わり」
たどたどしい英語だったが云いたいことは充分に伝わって来た。つまり彼らは反乱軍の家族ということで捕えられてしまうのだ。何とかしてやりたいが…どんな方法があるのだろう。こんな時は一人になって考えるに限る。
「ちょっと中庭で考えさせてくれ」
ハクはイーイーに告げると一人で中庭に出た。空には満天の星と三日月が見える。困った時はいつも空を見ながら祖母の魂に祈った。
「ばあちゃん、俺はどうすればいいんだ?」
しばらくすると頭の中で声がした。
「目の前で困っている者がいたら、まずその者を助けなさい」
「わかった、ばあちゃん。やるよ。俺、できるだけのことはする」

イーイーたち一家四人を乗せた船が上海から出航したのは、それから十日後だった。ハワイ経由サンフランシスコ行のアメリカ商船アラメダ号。四人はマウイ島のラハイナで下船することになっていた。ハクはマウイ島に住む彼の叔父あてに紹介状を書いた。イーイーは少しは英語ができるので、ホテルや商店でも充分働けるだろう。弟はとりあえずサトウキビ農園で働きながら勉強すれば良いだろう。母親もメイドならできそうだと言っていた。彼らが自立できるまではハクが経済面で援助をするつもりだった。ハクの蓄えはなくなってしまうかもしれないが、心はすっきりと晴れやかだった。


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